諸般の事情により、永らく更新して居りませんでしたが、ボチボチと書いて行く事に致します。
神だか悪魔だかの仕業により、体調も仕事も思わしくなく、地磁気が逆転するから気を付けよと忠告する御仁まで現れ、中々にタイミングが掴めない状況でもあった。
神だか悪魔だかの仕業により、体調も仕事も思わしくなく、地磁気が逆転するから気を付けよと忠告する御仁まで現れ、中々にタイミングが掴めない状況でもあった。
前回、音盤も時計もアナログを愛好して居ると書いた。
アナログと言っても、音盤にも時計にもレトロと云う物があって、巧妙に昔風に作られているのだが、これは実際には新しい物だ。
デジタル録音のLPレコードと云うものや、アナログ録音のデジタルマスタリングと云うものもあって、本末転倒とはこの事である。
時計も、針が3本付いて居て時刻を表示するからアナログ時計かと言えば、そんな単純な事でも無い。光発電の電波時計なんぞは、もう歴としたデジタル時計である。職人技の妙なんてものはそこには無い。
アナログの時計も音盤も、実は全く同じ原理だと云う事を知らねばならない。
更にもっと突っ込めば、音楽と時との深い関係にまで遡及せねばならないのだが、今回はそこまでは論じない。
アナログと言っても、音盤にも時計にもレトロと云う物があって、巧妙に昔風に作られているのだが、これは実際には新しい物だ。
デジタル録音のLPレコードと云うものや、アナログ録音のデジタルマスタリングと云うものもあって、本末転倒とはこの事である。
時計も、針が3本付いて居て時刻を表示するからアナログ時計かと言えば、そんな単純な事でも無い。光発電の電波時計なんぞは、もう歴としたデジタル時計である。職人技の妙なんてものはそこには無い。
アナログの時計も音盤も、実は全く同じ原理だと云う事を知らねばならない。
更にもっと突っ込めば、音楽と時との深い関係にまで遡及せねばならないのだが、今回はそこまでは論じない。
幻の名盤、と称させるものがあって、これは単純に、非常に入手が難しいものに冠せられる呼称である。
但し、この言葉に正確な定義がある訳では無く、発した当人の主観である事は間違いない。
時計愛好家の世界にも「幻の時計」と云うものが存在し、その代表格にタカノがある。
タカノと言って、「ああ」と反応する人は稀である。最近は時計屋でさえタカノを知らぬ者が多い。
高野精密工業自体は古い会社で、主に柱時計や置時計を作って居たのだが、戦後、愈々腕時計分野に進出する事になり、57年から腕時計の生産を開始する。しかし、59年の伊勢湾台風で工場が壊滅的被害を被り、その後急速に業績が悪化し、リコーに吸収された。
タカノブランドは57年から61年の間の、僅か4年11ヶ月で消滅し、残存数の少なさから「幻の時計」と称されるようになった。
タカノの時計は、作りの良さ、デザインの先進性が魅力である。
同じ時期、セイコー、シチズン、オリエントと云った先発メーカーは、どちらかと言うと無難で無骨なデザインであったが、タカノのデザイン性はスイスの高級時計に比しても尚、その先を行く先進性であり、60年近く経った現在に於いても立派に通用する。
又、名古屋のメーカーとしての誇りを感じさせる「シャトー・シリーズ」は、手巻きとしては当時、世界最薄のキャリバーを開発、搭載したものであり、コレクターの人気は高い。因みにシャトーは「お城」を意識したネーミングである。
但し、この言葉に正確な定義がある訳では無く、発した当人の主観である事は間違いない。
時計愛好家の世界にも「幻の時計」と云うものが存在し、その代表格にタカノがある。
タカノと言って、「ああ」と反応する人は稀である。最近は時計屋でさえタカノを知らぬ者が多い。
高野精密工業自体は古い会社で、主に柱時計や置時計を作って居たのだが、戦後、愈々腕時計分野に進出する事になり、57年から腕時計の生産を開始する。しかし、59年の伊勢湾台風で工場が壊滅的被害を被り、その後急速に業績が悪化し、リコーに吸収された。
タカノブランドは57年から61年の間の、僅か4年11ヶ月で消滅し、残存数の少なさから「幻の時計」と称されるようになった。
タカノの時計は、作りの良さ、デザインの先進性が魅力である。
同じ時期、セイコー、シチズン、オリエントと云った先発メーカーは、どちらかと言うと無難で無骨なデザインであったが、タカノのデザイン性はスイスの高級時計に比しても尚、その先を行く先進性であり、60年近く経った現在に於いても立派に通用する。
又、名古屋のメーカーとしての誇りを感じさせる「シャトー・シリーズ」は、手巻きとしては当時、世界最薄のキャリバーを開発、搭載したものであり、コレクターの人気は高い。因みにシャトーは「お城」を意識したネーミングである。
この幻のタカノが、何故か私の手元に2個存在する。
一つはドイツ製キャリバーを搭載した最初期のノーネームの物。幻中の幻。大変貴重な代物だ。
一つはドイツ製キャリバーを搭載した最初期のノーネームの物。幻中の幻。大変貴重な代物だ。
そして、文字盤やケースの凝った作り。美しい時計だ。
もう一つは当時の世界最薄。シャトーのSuperior。これはTAKANO製キャリバー搭載21石の贅沢な作りだ。
そして何より、この凝った作り、洗練されたデザインには目を疑う程だ。半世紀以上経った今でも、全く古さを感じさせない。否、今でもこれ程美しい時計には滅多にお目に掛かれないであろう。
時計と同様、レコードプレーヤーと云う奴も、ちょくちょくと回してやらねば状態を維持出来ない。
近頃急にバッハが聴きたくなったので、今回は管弦楽組曲第3番である。
管弦楽組曲は序曲(シンフォニア)付きの舞曲集であるが、第3番は多少趣が変わって居る。そして、この異形な第3番は非常に私の好みなのだ。
近頃急にバッハが聴きたくなったので、今回は管弦楽組曲第3番である。
管弦楽組曲は序曲(シンフォニア)付きの舞曲集であるが、第3番は多少趣が変わって居る。そして、この異形な第3番は非常に私の好みなのだ。
どう異形かと言えば、第1曲のフランス風序曲と第2曲のポリフォニックなエアの2曲で全体の半分以上を占めて居るのである。詰まり、舞曲集の仮面を被っては居るが、非舞曲に比重が置かれて居る。これが異形である。
更に、第5曲ジーグでは、ラメントバスと云う半音階下降が現れ、エネルギッシュで弾けるような音楽を、影のある憂いが差し込む音楽として居るのだ。これも又、単なる舞曲では無い。
バッハは明らかに何かを伝えて居る。
これはチャイコの悲愴に相通ずる如き、ミステリアスな曲と言って良い。詰まり私好みの曲なんである。
私はこの曲に関しては新しい録音は聴いて居ない。極めて残念な事に、リヒターのアルヒーフ盤を聴いてからと云うもの、他の演奏を聴く気が起こらないのである。
様々な聴き方があると思うが、若干34歳のリヒターによるこの演奏は、それ位圧倒的名演だと思う。
81年。54歳でリヒターが亡くなった時は、計り知れぬ衝撃が走った。そして、同じ程度の衝撃がその翌年私を襲った。ペッパーが亡くなったのである。
更に、第5曲ジーグでは、ラメントバスと云う半音階下降が現れ、エネルギッシュで弾けるような音楽を、影のある憂いが差し込む音楽として居るのだ。これも又、単なる舞曲では無い。
バッハは明らかに何かを伝えて居る。
これはチャイコの悲愴に相通ずる如き、ミステリアスな曲と言って良い。詰まり私好みの曲なんである。
私はこの曲に関しては新しい録音は聴いて居ない。極めて残念な事に、リヒターのアルヒーフ盤を聴いてからと云うもの、他の演奏を聴く気が起こらないのである。
様々な聴き方があると思うが、若干34歳のリヒターによるこの演奏は、それ位圧倒的名演だと思う。
81年。54歳でリヒターが亡くなった時は、計り知れぬ衝撃が走った。そして、同じ程度の衝撃がその翌年私を襲った。ペッパーが亡くなったのである。
ペッパー56歳であった。
フルトヴェングラーの追悼演奏で、カラヤンが演奏したG線上のアリアを思い出した。
管弦楽組曲第3番は悲しみを湛えた曲だったのである。
フルトヴェングラーの追悼演奏で、カラヤンが演奏したG線上のアリアを思い出した。
管弦楽組曲第3番は悲しみを湛えた曲だったのである。
シューリヒト/フランクフルト放送響 61年録音 日コロ盤LP
私がこの演奏を聴いたのはかなり遅い。81年に日コロから発売されたこのLPを聴いたのが初である。
シューリヒトのバッハは深い。ブランデンブルクにも感服したが、この管弦楽組曲3番にはほとほと恐れ入った。この曲、ポリフォニックな構造であるから、ポリフォニックオヤジのシューリヒトが嵌らぬ道理が無い。否、この爺はバッハが身に染みて居るに相違無い。
序曲、出だしのgraveの荘重な深さ。オーボエのもの悲しさにそそられる。
vivaceも決して走らず落ち着きと深みがある。全く響かないトランペット、ソロヴァイオリンの情緒、威風堂々の終結。見事である。
エアも悲しく深い。この切々としたヴィオラで感動しない者は不幸である。
ガヴォットのポリフォニー感は見事である。些か通俗的なこの曲を、1曲の音楽として聴かせて仕舞うのがシューリヒトの凄さである。
ブーレは落ち着いたテンポながらリズムが躍動して居る。
ジーグの出だしのトランペットは一体何事であろう。丸で響かず豆腐屋のラッパの如しである。しかし、この懐かしさは比類無い。ドイツの田舎の踊りとはこんなもんだぞ、と諭されて居るようなのだ。ラメントバスで音楽が沈潜して行く中、エコー的な扱いのセカンドヴァイオリンを特と味わって欲しい。これぞシューリヒトの味わいなのだ。胸を掻きむしる如き切ない演奏だ。
シューリヒトのバッハは深い。ブランデンブルクにも感服したが、この管弦楽組曲3番にはほとほと恐れ入った。この曲、ポリフォニックな構造であるから、ポリフォニックオヤジのシューリヒトが嵌らぬ道理が無い。否、この爺はバッハが身に染みて居るに相違無い。
序曲、出だしのgraveの荘重な深さ。オーボエのもの悲しさにそそられる。
vivaceも決して走らず落ち着きと深みがある。全く響かないトランペット、ソロヴァイオリンの情緒、威風堂々の終結。見事である。
エアも悲しく深い。この切々としたヴィオラで感動しない者は不幸である。
ガヴォットのポリフォニー感は見事である。些か通俗的なこの曲を、1曲の音楽として聴かせて仕舞うのがシューリヒトの凄さである。
ブーレは落ち着いたテンポながらリズムが躍動して居る。
ジーグの出だしのトランペットは一体何事であろう。丸で響かず豆腐屋のラッパの如しである。しかし、この懐かしさは比類無い。ドイツの田舎の踊りとはこんなもんだぞ、と諭されて居るようなのだ。ラメントバスで音楽が沈潜して行く中、エコー的な扱いのセカンドヴァイオリンを特と味わって欲しい。これぞシューリヒトの味わいなのだ。胸を掻きむしる如き切ない演奏だ。
ハルノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 66年録音 TELEFUNKEN盤LP
この音盤の発売当時は、まだハルノンクールと云う表記であった。78年の水上の音楽辺りからアーノンクールと云う表記になったと記憶して居る。
処で私はこの得体の知れぬハルノンクールと云う指揮者の管弦楽組曲3番がお気に入りであった。鉄板のリヒター盤が存在して居る時代である。私はテレフンケンの音盤を持って諸先輩に聴かせて回った記憶がある。
この演奏、ハルノンクール指揮となっては居るが、実際は指揮者は居ない。彼はチェロパートで演奏して居る。この演奏の中心は実はアリスのヴァイオリンなんである。私はこのアリスの澄んだヴァイオリンの音色に打ちのめされたのである。ジャケットを見れば判るだろうが、中心はアリスであって、夫ハルノンクールは左端である。アリスが主役の演奏であるから、この演奏はアクが無く、瑞々しく清々しい魅力を放って居る。
序曲graveは当時は目からウロコのピリオッド奏法で新鮮な感じがしたが、今聴き返すと良く纏まった控え目な表現だ。vivaceに入ると軽快な感じで聴き易い。アリスの滑らかなヴァイオリンが一服の清涼剤の効果だ。
当然次のエアが最大の聴き処である。淡々と進む滑らかな音楽は悲しみと云うよりは寂しさの表象である。この音楽の中に溶けて仕舞いたいと願う程美しい。
ガヴォットは繋ぎとしてアッサリと纏めた感じだ。アーノンらしい角が無い。あくまで舞曲としての忠実な表現に終始して居る。
ブーレは若干活気が出て来るが、ここも繋ぎと云う感じで押えて居る。
ジーグはシューリヒトのような名人芸腹芸は無い。後半に若干悲しみの影が差すのだが、深くは落とし込まない。ただ、単なる喧騒の音楽としないのは優れたバランス感覚だと思う。
処で私はこの得体の知れぬハルノンクールと云う指揮者の管弦楽組曲3番がお気に入りであった。鉄板のリヒター盤が存在して居る時代である。私はテレフンケンの音盤を持って諸先輩に聴かせて回った記憶がある。
この演奏、ハルノンクール指揮となっては居るが、実際は指揮者は居ない。彼はチェロパートで演奏して居る。この演奏の中心は実はアリスのヴァイオリンなんである。私はこのアリスの澄んだヴァイオリンの音色に打ちのめされたのである。ジャケットを見れば判るだろうが、中心はアリスであって、夫ハルノンクールは左端である。アリスが主役の演奏であるから、この演奏はアクが無く、瑞々しく清々しい魅力を放って居る。
序曲graveは当時は目からウロコのピリオッド奏法で新鮮な感じがしたが、今聴き返すと良く纏まった控え目な表現だ。vivaceに入ると軽快な感じで聴き易い。アリスの滑らかなヴァイオリンが一服の清涼剤の効果だ。
当然次のエアが最大の聴き処である。淡々と進む滑らかな音楽は悲しみと云うよりは寂しさの表象である。この音楽の中に溶けて仕舞いたいと願う程美しい。
ガヴォットは繋ぎとしてアッサリと纏めた感じだ。アーノンらしい角が無い。あくまで舞曲としての忠実な表現に終始して居る。
ブーレは若干活気が出て来るが、ここも繋ぎと云う感じで押えて居る。
ジーグはシューリヒトのような名人芸腹芸は無い。後半に若干悲しみの影が差すのだが、深くは落とし込まない。ただ、単なる喧騒の音楽としないのは優れたバランス感覚だと思う。
ガーディナー/イングリッシュ・バロック・ソロイスツ 84年録音 ERATO盤CD
これは今回唯一のCD盤だが、私はこの演奏は結構好きである。ガーディナーはノリが良いのだ。
序曲のgraveは意外にも浅い。ガーディナーの明朗さ軽さが少しばかり仇になった感がある。これがvivaceに入ると途端に目が覚める。ノリの良いガーディナーの本領発揮である。私は最初これを聴いた時、チャーリー・パーカーを想起せずには居られ無かった。ビ・バップのノリなのだ。これは良い。身体が自然に動き出すスウィング感。
中間部と最後のgraveはノリの延長で最初の部分よりは出来が良いのが面白い。
続くエアは問題有りかも知れぬ。このレガート感の無さは戴け無いぞよ。ちょいと魂が音楽に溶け込まない。鎮魂度不足じゃ。
ガヴォットとなると、これはガーディナーの世界だ。非常にバランスの取れた好演。特に第2ガヴォットの寂寥感が上手い。
ブーレはリズミカルで軽く纏め、間髪を入れずジーグになだれ込む。
序曲のgraveは意外にも浅い。ガーディナーの明朗さ軽さが少しばかり仇になった感がある。これがvivaceに入ると途端に目が覚める。ノリの良いガーディナーの本領発揮である。私は最初これを聴いた時、チャーリー・パーカーを想起せずには居られ無かった。ビ・バップのノリなのだ。これは良い。身体が自然に動き出すスウィング感。
中間部と最後のgraveはノリの延長で最初の部分よりは出来が良いのが面白い。
続くエアは問題有りかも知れぬ。このレガート感の無さは戴け無いぞよ。ちょいと魂が音楽に溶け込まない。鎮魂度不足じゃ。
ガヴォットとなると、これはガーディナーの世界だ。非常にバランスの取れた好演。特に第2ガヴォットの寂寥感が上手い。
ブーレはリズミカルで軽く纏め、間髪を入れずジーグになだれ込む。
このジーグは良い。実に計算の行き届いた見事な構成だ。下降音階に伴う黄昏の如き寂しさも、快速テンポの中に埋め込まれて居る。
リヒター/ミュンヘン・バッハ管 60年録音 ARCHIV盤LP
こう云うのを圧倒的演奏と呼ぶのであろう。この恐ろしく深い演奏が34歳の若者によって為されたと云うのは俄かに信じられない。彼の天命が54歳とすれば、恐らくこの境地は最も脂の乗り切った時期であったのかも知れぬ。
実は私はこの演奏は非常に早い時期から聴いて居た。それはDG盤のLPであったが、それを聴いて居た時には実に端整で良く纏まった演奏だわい、と云う程度の認識であった。勿論、大好きなDG盤であるから愛聴盤だったのだが、後年、独プレスのアルヒーフ盤を聴くようになって、この途轍も無く巨大な演奏に圧倒されたのである。DG盤とは丸で音のバランスが違う。アルヒーフが本物とすればDG盤はフェイクだ。それ程に差が歴然として居る。
序曲のgraveは恐るべき音楽だ。私には最早圧倒的と云う言葉しか思い当たら無いのであるが、巨大な音楽が屹立する。リヒターはオルガンも弾く。否、レコードデビューは寧ろオルガン演奏の方が先であった。このオルガン的音響はリヒターが意図して居たに相違無いのである。
vivaceに入ろうと軽さは無い。寧ろ力感が増して来る。軽やかなるべきヴァイオリンの旋律は、来るべき深淵の予兆に過ぎ無い。
穏やかなエアは胸が締め付けられる程の静けさと鎮魂性に満ちた音楽だ。ヴィオラの旋律が深く胸に染み入って来るのである。
ガヴォットも単なる舞曲の範疇には収まっては居ない。実に堂々たる音楽で組曲全体を引き締めて居る。
他では軽さを感じさせるブーレもリヒターの手に掛かると思わず聴き入って仕舞う力がある。
最後のジーグの引力も並々ならぬものがある。この引き込まれる感じは…
そう、バーンスタインのショスタコ5番の1楽章の如き感触だ。音楽の中心に向かって引き込まれて行く。何時迄も終わらないで欲しいと思う音楽。
実は私はこの演奏は非常に早い時期から聴いて居た。それはDG盤のLPであったが、それを聴いて居た時には実に端整で良く纏まった演奏だわい、と云う程度の認識であった。勿論、大好きなDG盤であるから愛聴盤だったのだが、後年、独プレスのアルヒーフ盤を聴くようになって、この途轍も無く巨大な演奏に圧倒されたのである。DG盤とは丸で音のバランスが違う。アルヒーフが本物とすればDG盤はフェイクだ。それ程に差が歴然として居る。
序曲のgraveは恐るべき音楽だ。私には最早圧倒的と云う言葉しか思い当たら無いのであるが、巨大な音楽が屹立する。リヒターはオルガンも弾く。否、レコードデビューは寧ろオルガン演奏の方が先であった。このオルガン的音響はリヒターが意図して居たに相違無いのである。
vivaceに入ろうと軽さは無い。寧ろ力感が増して来る。軽やかなるべきヴァイオリンの旋律は、来るべき深淵の予兆に過ぎ無い。
穏やかなエアは胸が締め付けられる程の静けさと鎮魂性に満ちた音楽だ。ヴィオラの旋律が深く胸に染み入って来るのである。
ガヴォットも単なる舞曲の範疇には収まっては居ない。実に堂々たる音楽で組曲全体を引き締めて居る。
他では軽さを感じさせるブーレもリヒターの手に掛かると思わず聴き入って仕舞う力がある。
最後のジーグの引力も並々ならぬものがある。この引き込まれる感じは…
そう、バーンスタインのショスタコ5番の1楽章の如き感触だ。音楽の中心に向かって引き込まれて行く。何時迄も終わらないで欲しいと思う音楽。