4月1日のyositakaさんの記事を拝見し、ムラムラと種火が燻って来た。神のお告げである。
https://blogs.yahoo.co.jp/izumibun/40482907.html
ブラームスとなればワシも一言弄せねばなるまい。
記事中、ワインガルトナーの2音源が紹介されて居た。であらば、最後の37年盤も聴かねば、何とも落ち着かぬではないか。
折角なので、久々にお気に入りのブラ1を収録し直して居た処、事件が勃発した。yositakaさんに種火を着けられたと思って居たら、どうも自然発火的に他方からも放火されたようである。
ブラ1を収録し始めた折も折、前触れも無く米国から大量のLPが届いた。
Shuさんからである。
ネタはベートーヴェンの5番、コンヴィチュニー/ゲヴァントハウス管のETERNA盤3種。チャイコ6番、カラヤンの71年盤6種。
これらの驚くべき内容に関しては、近々記事に上げて行く事にするが、今はブラ1。
ワインガルトナーの37年盤を取り上げるついでに、私の愛聴盤も5枚程上げる事とした。
私はブラームスの4つの交響曲の中では1番は余り好みとは言えない。
ビューローの言った如くベートーヴェンの第10とも思えぬし、形式的に「新古典主義」とも思えぬ。本来は、暗黒から光明へ、と云う単純な一言では片付けられない意義深い内容である。暗黒とはキリスト教であり、光明とはアフラ・マズダである。それが為にブラームスは1番の作曲に時間を要した。
同じプロットでもシューマンの第2では分かり難い。要するに音楽は分かり易く、思想的内容は分かり難くしたのがブラームスの1番である。更に、もっと大掛かりな仕掛けの中の序曲的位置付けでもある。
このような緻密で入り組んだ仕掛けが、私を遠ざける一因となって居る。
ブラームスの交響曲の仕掛けに関しては、過去記事に書いたのでここでは詳しく触れない。https://blogs.yahoo.co.jp/quontz/54868528.html
1番はベートーヴェン風に言えば「英雄(プロメテウス)の登場」と云う事になり。プロメテウスは堕天使(ルシフェル)であるから、あくまで表面上からは隠さねばならぬ対象なのである。
最近のyoutubeは、肝心の音声のみを消すと云う新手の技を使うようになって居るので、今回も早めの御視聴を御薦めする。尚、カラヤンとベームは最初からスマホでは再生出来無いようである。
ワインガルトナー/ロンドン響 37年録音 Artisco盤LP
ワインガルトナーは当初、ブラームスの音楽は人工的、科学的であるとして、距離を置いて居たようである。しかし、1896年にウィーンでのベルリン・フィル演奏会で、ブラームスの交響曲第2番を演奏するに当たり、ブラームスの許を訪れて以降、ブラームスの音楽への理解度が飛躍的に深まって行ったのである。
この時、二人の間にどのような内容の会話がなされたかは知る由も無いが、ワインガルトナーが著作内で記して居るような社交辞令的なものだけではあるまい。ブラームスも、この時のワインガルトナーの第2の演奏を褒めて居たと云うから、相当に深い話がされて居たであろう事は想像に難く無い。
詰まり、ワインガルトナーのブラームス解釈は、ブラームス直伝と言って差支えはあるまい。
36年に英国に亡命したワインガルトナーの貴重な演奏記録である。
ここに収録したArtisco盤LPは、残念乍ら原初のキレや抜けが無く、若干もどかしくはあるが、スケール感やハーモニックは確認する事が出来る。
下記で触れるベーム/ベルリン・フィルの演奏も、このワインガルトナー盤の延長にあると言える。
クリップス/ウィーン・フィル 56年録音 Decca盤LP
私は事有る毎にクリップスの演奏を声高に紹介して居る。クリップスがナメられて居るのか、感性の低い者が多いのか、はたまた意図的に無視されて居るのかは定かではないが、このブラ1もでりゃー名演だと言わずには居れない。
クリップスの師匠と言えばワインガルトナー。ここで、ちゃんと繋がるように出来て居るのだわ。殊にこの世にも美しき第2楽章に反応せぬようでは音楽ファンを名乗ってはいかん。
クリップスの演奏は野太く恰幅が良い。更にオケがVPOであるから、何処を切ってもVPO、と云う有難い響きに満ちて居る。
棚の片隅につくねて置くにゃ余りにも勿体無き名盤なのである。
カラヤン/ウィーン・フィル 59年録音 LONDON盤LP
私はカラヤンのブラームスを早くから評価して居たが、中でもカルショウと組んだブラ1、ブラ3、悲劇的序曲は何れもが絶品である。評論家の言なんぞに騙されてはいかん。若い衆はこの3曲を繰り返し聴きなされ。この味わいを理解せずに死ぬ事は無い。ここでは詳しくは触れないが、悲劇的序曲はこのカラヤン盤以外は聴けない、と思わせる程の絶品である。
本題の第1であるが、聴き処は終楽章、ホルンソロ以降の切々と心温まり涙を誘う郷愁は滅多に聴ける代物では無い。
終結部はどれ程に畳み掛けるのかと身構えて居ると、何とも堂々と微動だにせぬ指揮振りに、逆に「やられたわい」と呟く事であろう。
ベーム/ベルリン・フィル 63年録音 DG盤LP
これぞ鉄板と言われ続けて居る名盤である。大したもんである。
名匠ヘルマンス録音であるから言う事は無いのであるが、この大したもんである感は、良く聴くとBPOの音響に由来する事、大なのである。
全方位に亘って誠に申し分無き出来栄えなんであるが、先にカラヤン盤を聴いて仕舞うと、これはどうにもクールな演奏である。
ブラームスはクールでも一向に構わんが、ウエット感は欲しい。ベームのブラ1はドライなクールで、これが聴き飽きしない大きな理由でもあるが、この曲はブラームスの中では多少賑々しい序曲的な音楽である。もう少し煽って欲しいと思うのは我一人であろうか…
ケンペ/ミュンヘン・フィル 75年録音 BASF盤LP
ケンペのブラームスも侮られて居る名演の一つと言える。私は最初にこれを耳にした時、愕然とした。今まで何を聴いて来たのかと思った。これ程迄に一節一節に丁寧に愛情の籠った演奏を聴いた事が無かった。簡単に「上手い」の一言では済まされぬ、実に心の籠った演奏だ。単調な部分など一つも無いのである。ウィーン風の暖かいブラームスも好きではあるが、矢張りこれ位涼しく哀愁を訴える方が正調ブラームスと云う感じがする。
ケンペはブラームスが見えて居た。同じようにブルックナーも見えて居た。と、云う事はその更に先にあるロマン派の本質も見えて居たに相違無い。師のカイルベルトから受け継がれたものがここには確かに有る。
終楽章終結部の煽り。ケンペは時折誰もが追い付けぬ程のアチェレランドをかけて煽り捲る事が有るのだが、その一端が垣間見える瞬間である。しかしその直後には確りとテンポは戻る。絶妙なバランス感覚である。
ケンペは、光り輝くカラヤンに隠された月のような存在であるが、私はこの月も好む。
ベイヌム/コンセルトヘボウ管 51年録音 LONDON盤LP
ブラ1と言うと必ず登場させるので、良い加減辟易とされて居る御仁も居られようが、この盤は幾ら聴いても飽きないのである。今回は最初期の国内盤、LONDON盤からの収録である。国内盤と雖もこの盤は侮れない。DECCAオリジナルと同等の音質であると言って良い。厄介なのはイコライジング特性がffrrと云う事である。この盤はどうであろうと悩む必要は全く無い。堂々とffrrで再生しなさい、と明記してあるのだ。
50年代のコンセルトヘボウ管は全く隙が無い。この完璧な合奏力、ソロ楽器の美しさに加えて、ベイヌムの鬼気迫る熱血振りと豊かな歌いっぷりが凄まじい。態とずらす弦の裏技はメンゲルベルク譲りだ。終楽章では余りの爆発振りに名匠ウィルキンソンも追従出来ない場面さえ出来する。
終結部はケンペも真っ青なアチェレランドで、そのまま最後迄突き切って仕舞うのである。聴手をも巻き込んで仕舞う猛烈な嵐である。
かかる名演を風化させてはならないと思う。
https://blogs.yahoo.co.jp/izumibun/40482907.html
ブラームスとなればワシも一言弄せねばなるまい。
記事中、ワインガルトナーの2音源が紹介されて居た。であらば、最後の37年盤も聴かねば、何とも落ち着かぬではないか。
折角なので、久々にお気に入りのブラ1を収録し直して居た処、事件が勃発した。yositakaさんに種火を着けられたと思って居たら、どうも自然発火的に他方からも放火されたようである。
ブラ1を収録し始めた折も折、前触れも無く米国から大量のLPが届いた。
Shuさんからである。
ネタはベートーヴェンの5番、コンヴィチュニー/ゲヴァントハウス管のETERNA盤3種。チャイコ6番、カラヤンの71年盤6種。
これらの驚くべき内容に関しては、近々記事に上げて行く事にするが、今はブラ1。
ワインガルトナーの37年盤を取り上げるついでに、私の愛聴盤も5枚程上げる事とした。
私はブラームスの4つの交響曲の中では1番は余り好みとは言えない。
ビューローの言った如くベートーヴェンの第10とも思えぬし、形式的に「新古典主義」とも思えぬ。本来は、暗黒から光明へ、と云う単純な一言では片付けられない意義深い内容である。暗黒とはキリスト教であり、光明とはアフラ・マズダである。それが為にブラームスは1番の作曲に時間を要した。
同じプロットでもシューマンの第2では分かり難い。要するに音楽は分かり易く、思想的内容は分かり難くしたのがブラームスの1番である。更に、もっと大掛かりな仕掛けの中の序曲的位置付けでもある。
このような緻密で入り組んだ仕掛けが、私を遠ざける一因となって居る。
ブラームスの交響曲の仕掛けに関しては、過去記事に書いたのでここでは詳しく触れない。https://blogs.yahoo.co.jp/quontz/54868528.html
1番はベートーヴェン風に言えば「英雄(プロメテウス)の登場」と云う事になり。プロメテウスは堕天使(ルシフェル)であるから、あくまで表面上からは隠さねばならぬ対象なのである。
最近のyoutubeは、肝心の音声のみを消すと云う新手の技を使うようになって居るので、今回も早めの御視聴を御薦めする。尚、カラヤンとベームは最初からスマホでは再生出来無いようである。
ワインガルトナー/ロンドン響 37年録音 Artisco盤LP
ワインガルトナーは当初、ブラームスの音楽は人工的、科学的であるとして、距離を置いて居たようである。しかし、1896年にウィーンでのベルリン・フィル演奏会で、ブラームスの交響曲第2番を演奏するに当たり、ブラームスの許を訪れて以降、ブラームスの音楽への理解度が飛躍的に深まって行ったのである。
この時、二人の間にどのような内容の会話がなされたかは知る由も無いが、ワインガルトナーが著作内で記して居るような社交辞令的なものだけではあるまい。ブラームスも、この時のワインガルトナーの第2の演奏を褒めて居たと云うから、相当に深い話がされて居たであろう事は想像に難く無い。
詰まり、ワインガルトナーのブラームス解釈は、ブラームス直伝と言って差支えはあるまい。
36年に英国に亡命したワインガルトナーの貴重な演奏記録である。
ここに収録したArtisco盤LPは、残念乍ら原初のキレや抜けが無く、若干もどかしくはあるが、スケール感やハーモニックは確認する事が出来る。
下記で触れるベーム/ベルリン・フィルの演奏も、このワインガルトナー盤の延長にあると言える。
クリップス/ウィーン・フィル 56年録音 Decca盤LP
私は事有る毎にクリップスの演奏を声高に紹介して居る。クリップスがナメられて居るのか、感性の低い者が多いのか、はたまた意図的に無視されて居るのかは定かではないが、このブラ1もでりゃー名演だと言わずには居れない。
クリップスの師匠と言えばワインガルトナー。ここで、ちゃんと繋がるように出来て居るのだわ。殊にこの世にも美しき第2楽章に反応せぬようでは音楽ファンを名乗ってはいかん。
クリップスの演奏は野太く恰幅が良い。更にオケがVPOであるから、何処を切ってもVPO、と云う有難い響きに満ちて居る。
棚の片隅につくねて置くにゃ余りにも勿体無き名盤なのである。
カラヤン/ウィーン・フィル 59年録音 LONDON盤LP
私はカラヤンのブラームスを早くから評価して居たが、中でもカルショウと組んだブラ1、ブラ3、悲劇的序曲は何れもが絶品である。評論家の言なんぞに騙されてはいかん。若い衆はこの3曲を繰り返し聴きなされ。この味わいを理解せずに死ぬ事は無い。ここでは詳しくは触れないが、悲劇的序曲はこのカラヤン盤以外は聴けない、と思わせる程の絶品である。
本題の第1であるが、聴き処は終楽章、ホルンソロ以降の切々と心温まり涙を誘う郷愁は滅多に聴ける代物では無い。
終結部はどれ程に畳み掛けるのかと身構えて居ると、何とも堂々と微動だにせぬ指揮振りに、逆に「やられたわい」と呟く事であろう。
ベーム/ベルリン・フィル 63年録音 DG盤LP
これぞ鉄板と言われ続けて居る名盤である。大したもんである。
名匠ヘルマンス録音であるから言う事は無いのであるが、この大したもんである感は、良く聴くとBPOの音響に由来する事、大なのである。
全方位に亘って誠に申し分無き出来栄えなんであるが、先にカラヤン盤を聴いて仕舞うと、これはどうにもクールな演奏である。
ブラームスはクールでも一向に構わんが、ウエット感は欲しい。ベームのブラ1はドライなクールで、これが聴き飽きしない大きな理由でもあるが、この曲はブラームスの中では多少賑々しい序曲的な音楽である。もう少し煽って欲しいと思うのは我一人であろうか…
ケンペ/ミュンヘン・フィル 75年録音 BASF盤LP
ケンペのブラームスも侮られて居る名演の一つと言える。私は最初にこれを耳にした時、愕然とした。今まで何を聴いて来たのかと思った。これ程迄に一節一節に丁寧に愛情の籠った演奏を聴いた事が無かった。簡単に「上手い」の一言では済まされぬ、実に心の籠った演奏だ。単調な部分など一つも無いのである。ウィーン風の暖かいブラームスも好きではあるが、矢張りこれ位涼しく哀愁を訴える方が正調ブラームスと云う感じがする。
ケンペはブラームスが見えて居た。同じようにブルックナーも見えて居た。と、云う事はその更に先にあるロマン派の本質も見えて居たに相違無い。師のカイルベルトから受け継がれたものがここには確かに有る。
終楽章終結部の煽り。ケンペは時折誰もが追い付けぬ程のアチェレランドをかけて煽り捲る事が有るのだが、その一端が垣間見える瞬間である。しかしその直後には確りとテンポは戻る。絶妙なバランス感覚である。
ケンペは、光り輝くカラヤンに隠された月のような存在であるが、私はこの月も好む。
ベイヌム/コンセルトヘボウ管 51年録音 LONDON盤LP
ブラ1と言うと必ず登場させるので、良い加減辟易とされて居る御仁も居られようが、この盤は幾ら聴いても飽きないのである。今回は最初期の国内盤、LONDON盤からの収録である。国内盤と雖もこの盤は侮れない。DECCAオリジナルと同等の音質であると言って良い。厄介なのはイコライジング特性がffrrと云う事である。この盤はどうであろうと悩む必要は全く無い。堂々とffrrで再生しなさい、と明記してあるのだ。
50年代のコンセルトヘボウ管は全く隙が無い。この完璧な合奏力、ソロ楽器の美しさに加えて、ベイヌムの鬼気迫る熱血振りと豊かな歌いっぷりが凄まじい。態とずらす弦の裏技はメンゲルベルク譲りだ。終楽章では余りの爆発振りに名匠ウィルキンソンも追従出来ない場面さえ出来する。
終結部はケンペも真っ青なアチェレランドで、そのまま最後迄突き切って仕舞うのである。聴手をも巻き込んで仕舞う猛烈な嵐である。
かかる名演を風化させてはならないと思う。