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Channel: 音盤再生家の音楽話
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カラヤンの悲愴(71年録音盤)徹底比較

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Shuさんの予言が見事的中し、4日程寝込んで仕舞った。春インフルと云う奴らしい。
悲愴交響曲の終楽章を聴きつつ逝くのも満更でも無いなと思ったのだが、カラヤンの演奏を聴いて居ると元気が出て来るから、そう簡単な事では無い。
エナジーが充填されるのである。



当ブログでは何度も言って居る事だが、悲愴交響曲の実態は悲愴では無い。
現状世界に対する反逆であり、革命の狼煙である。
であるから、反逆の祖、モーツァルトのSym.39~41&魔笛、であるとか、ベートーヴェンのエロイカ&第9と同様の位置付けである。
何れも作曲者が命尽きると云う共通点があるのだが、フランス革命、ナポレオン革命、ロシア革命と連動して居る事を肝に銘ずる必要がある。
1892~3年にはチャイコ先生はドヴォルジャークともブラームスとも会って居る。かなり危険な任務を引き受けたと推察し得る条件は揃って居る。

作曲者自身が、この曲には謎であるべきプログラムがある、と明言し、リムスキー・コルサコフに対して、今は言えぬ、と言って居る。詰まり、聴手に謎を掛けて居るのである。
私はブログを通してこの謎掛けのヒントを出して来た訳であるが、直感的にこの謎の「解」に極々迫った御仁が、今回の記事の為に音盤を御送り戴いたShuさんである。
以前の記事のコメント欄に「第4楽章の最後のコントラバスのピチカートがちょうど5回、この世の全てが消え入るように鳴らされていることに気付きました。もしかしてこれも隠しテーマの一部なのでしょうか???」
と、さり気無きコメントを書かれて居たのだが、将にそこなのである。
私は、鍵は2楽章に有り、と書いた。5拍子のワルツ。この5に込められた意味を感じて欲しいと。
それに敏感に反応して戴いた事は嬉しい限りである。
終楽章。チェリビダッケは弦にティンパニを重ね、壮絶感を表現して居たが、チャイコ先生の言いたかったのはもっと後ろ。最後のコントラバスの5発にある。一般的にはこの5発は心臓の鼓動、と解されて居るが、流石にそこまで解り易くは無い。それでは謎にならぬ。
最後に5発の止めを刺したと解すべきである。
ヨーロッパ文明は決して明朗快活なものでは無い。


さて、本題のカラヤンの悲愴71年盤であるが、順に確認して行く。
私は元々米Angel(CAPITOL72年盤)を聴いて居たのだが、Shuさんに送って戴いた中に米Angel(MFSL79年盤)が入って居た。これが中々に凝った作りで、オリジナル・ステレオ・マスター使用で、ortofonカッティングで、プレスは日本ビクターとある。所謂LP後期の高音質盤と云う奴である。
先頃、超音盤マニアのM氏から電話があり、このMFSL盤を検討して居る、と云う話であったが、私は御薦め致しかねる。
CAPITOL盤と比ぶるに、如何せん音域が狭くスッキリしない。CAPITOLは米Angelの本家本元である。どうせ狙うならCAPITOL盤、或いは英EMIオリジ盤であろうと思う。ただの人では無い。超マニアのM氏であるから妥協してはいかんと思う次第である。




基本に戻って、英EMIステレオ初盤を聴く。
矢張りこの盤は良く出来て居る。帯域が広く、ストレス無く高域が抜け、低域が沈み込む。ホール感は充分に感ずる事が出来るが、それが決して強調され過ぎず、適度に細部が浮かび上がる。将に絶妙なバランスである。



英EMIボックス盤。これは3枚組で4、5番も入って居る。
しっとりとして滑らかで、非常に聴き易い音質である。上記オリジ盤と大きな違いは無い。一般マニアレベルであればこれで充分であろう。
しかし、今検証して居るのは極めて贅沢な聴き方で、究極のマニア向けであるから厳密に判定するが、若干音域が狭く、少し引き気味の音である。従ってディティルの再現性は単発のオリジ盤の方が優れて居る。
反面、ちょいと引き気味の描き方は、ホールでの実演を好まれる向きにはお薦めである。
何れにしても悪い音盤では無い。




独エレクトローラのボックス盤(ステレオ盤)。これはゴールドレーベルなので殆ど初盤と言っても良い。
これはこれ迄のどのステレオ盤よりも圧倒的に広帯域である。音数が多く楽器の音が正確である。gustav師匠ならばドイチェ・グラモフォンのような音、と評されるに違い無い。と云う事は私の好みの鳴り方をするのであるが、敢えて客観的に評するならば、英EMIオリジ盤の方が奥行方向の描き方が巧妙であると言える。
詰まり、この盤はかなり近接感があり、生々しい。しかし恐らくギューリッヒの再生効果イメージは、寧ろ英盤の方では無いかと考えられる。販売戦略的にドイツ人好みに仕上げたのかも知れぬ。要するに好みの問題であるが、ちーとダルな鳴り方の(例えばタンノイ等)再生システムの場合はこの盤の方が良いと思う。




ここからはクワドロ・フォニック盤となる。
クワドロ・フォニックは、要するに4チャンネルステレオであるが、EMIはSQ方式なので通常の2チャンネル用ピックアップで再生可能である。が、そこは単純な売り手の売り文句であって、当然再生帯域が50KHz以上のカートリッジでなければ、単にモヤっとしたステレオと云う感じにしか聴こえない。



独エレクトローラのクワドロ・フォニック、赤ニッパー盤。恐らくセカンドプレスと思われる。
これも又、大変素晴らしい音質である。上記のエレクトローラのボックス盤が、より情報量が増えた感じで、細部はより克明に、空間に放出される音場感も広々と豊かである。カラヤンを聴く楽しみここに有り、と云う感じだが、言い換えればオーディオ・マニア向けとも言える。
低域も、単に一括りでは無く、中低域、低域、超低域と云うように何層ものセパレーションが確認出来る。大型システムを使用して居る方には堪らない音盤である。オーディオ・チェック用のレファレンス盤としても充分通用する。




英EMIのクワドロ・フォニック盤(オリジナル)である。
素晴らしい音だ。恐らく100人に聴かせたら100人がエクセレント!と言うに違い無い。
上記のエレクトローラ盤よりはシットリ感が出て物の見事に聴き易い。英盤オリジ盤に、無理無く情報量を増やし、その結果360°方向に音場が広がり、臨場感が増して居る。抜群の立体感なのである。
エレクトローラ盤よりはセパレーションはボケて来るが、臨場感は増す、と云う事である。この匙加減が見事なのだ。
こう云うものを聴くと、デジタル録音とは一体何だったのかと考えて仕舞う。
この録音、恐らくCDには入り切らぬ程の情報量である。頭を抑えられたデジタル音盤なんぞは足元にも及ばぬ高音質だ。DVD音質にも引けを取らないであろう。




最後に持って来たのは、独エレクトローラのクワドロ盤オリジナル(ゴールド盤)である。
最後に持って来たには訳が有る。これは上記全ての音盤よりも、全ての面に於いて優れて居るのである。ここ迄音場感豊かであり乍ら細部の動き迄が克明に聴き取れる。コントラバスのパッセージが、単に勢いに任せたもので無く、如何に細かな表現に拘って居るかが聴き取れるのである。
ここ迄来ると、流石の私も「71年盤も捨てたもんじゃ無いわい」と思わずには居られぬ。エネルギーが半端では無い。物凄い迫力である。




と、ここ迄書いて、それでも私はカラヤンの悲愴はDGの76年盤を好む。
エレクトローラのクワドロ盤は、只事ならぬ迫力で、思わず聴き入って仕舞うのだが、矢張り何か物足り無いのである。それは、チャイコ先生の意味深の謎掛けであり、背腹を穿つ如き、本来のパセティークの意味する処である。
カラヤン先生、そこをどうしても表現したくて5年後に、肝胆相照らすヘルマンス録音で残したのである。
改めて聴き返すと、カラヤン先生のエネルギーと執念がビシビシと伝わって来る。これでなくてはいかん。

物凄い悲愴を聴くのであれば71年盤。カラヤンの悲愴を聴くのであれば76年盤。と云う結論に達した。


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