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Channel: 音盤再生家の音楽話
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悲愴交響曲とは何か

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当地も漸く涼しい秋になり、快適に過ごせる時期となって来た。もう一月もすれば今度は寒さがやって来る。
妙な事に、今年は栗鼠を多く見掛ける。我が家の周りは樹木が多く、窓の外を栗鼠が走っている情景を見る事が多い。栗鼠と言っても、ここいらの奴は猫程の大きさがある。耳も長くナキウサギよりは余程ウサギ風である。このデカイ栗鼠が、すぐ間近を大きな尾を靡かせて走って居る姿は壮観である。
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このトトロみたいな奴がエゾリスで、北海道特有の生き物だ。
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走って居る様は、一見栗鼠には見えぬが、止まると確かに栗鼠だ。

因みに、隣のロシアのリスはどうかと、検索してみたが、矢張り似ている。キタリスと云うらしい。
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ただ、不思議な事に末端の毛色が、ロシア人の如くブロンド?(或いは赤毛)である。我が庭の奴はちゃんと黒毛であるから、良くしたものである。キタリスが樺太から来てエゾリスとなったとは思うが、毛色が変わったのは大いなる謎だ。

チャイコの悲愴交響曲にも謎が多い。何故悲愴なのか、とか、誰が名付けたのか、とか、チャイコの死因は何か、等々、兎に角謎が多い。
色々な演奏の色々な解釈を聴きながら、謎解きをするのも中々オツなもんである。


チャイコはロシア人なので、当然、日本語でHisoなんぞと言う訳も無く、普通にロシア語で発想して居たと考えられる。と、書くと、スコアに書かれて居るタイトルはフランス語ではないか、なんぞと突っ込む御仁が居ないとは限らぬ。しかも、初演前のスコアのタイトルにSimphonie Pathetiqueとフランス語で書かれていたと云うから驚いて良い。何しろ、未だにこのタイトルは、初演後に弟モデストがпатетическая(パテティチェスカヤ)ではどうか、と提案した、と信じて居る者は多いと思う。これが、初演前にスコアに書かれて居たとなると、この逸話は全くの与太話と云う事になる訳だ。
Simphonie Pathetiqueとなると、思い出して戴きたいのはSymphonie fantastiqueである。そう、幻想交響曲を思い浮かべて戴きたい。是非に。
チャイコはパクったのである。ベルリオーズの幻想交響曲になぞらえて悲愴交響曲は出来て居る。これは押えて置いて欲しい事項である。
1楽章で俯瞰的なテーマを提示し、2楽章での舞踏会、3楽章の行進曲、4楽章での結論。見事に一致する。幻想交響曲の野の風景のみが入っていないが、この不安一杯の野の風景は2楽章中間部にちゃんと組み込まれて居る。チャイコさん、相当に幻想交響曲にインスパイアされて居る。
で、あるから、当然スコアにはフランス語でSimphonie Pathetiqueと書き込んだ。
そもそも、チャイコは5番で、モットーと呼ばれる動機を用い、幻想交響曲に倣った前科がある。
当然それをより昇華した形に仕上げたと考えるには充分なのである

それに、チャイコ一族は過去にフランスから移住した事もあり、非常にフランスに対する憧憬、郷愁があったと思われる。それでフランス旅行後に猛烈な勢いで悲愴交響曲を書き上げたのである。

フランス語のPathetiqueには、崇高な、感傷的な、等と云う意味があり、ギリシア語となるとパッシヴな、と云うような意味にもなる。
そしてロシア語のпатетическая(パテティチェスカヤ)となると、熱狂的・感情的・爆発的と云う意味合いである。と、以上の事から総合的に考えると、耐え忍び忍従して居るが内面には崇高で爆発的なエネルギーを溜め込んだ、革命前のロシアの状況と見事に重なり合う。
死を前にした絶望、なんぞと云う事は断じて無いのである。そして、その爆発的感情を、フランス流に格好良くコーティングしたのはチャイコのセンスなのだ。
それが、海峡一つ渡って日本に来ると、イメージはエゾリスの如く変貌して仕舞う。悲しくやるせないドン底の曲なんぞと思われて仕舞う訳だ。これでは渾身の力作を残したチャイコ先生は浮かばれない。
この秘めたエネルギーを象徴するのが第4楽章の冒頭のメロディだ。このメロディは、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンで一音づつ交互に奏される。大変に手の込んだ作りなのである。
ここで思い出して戴きたいのは、当時のオーケストラ配置である。御忘れの方は私の過去記事を参照願いたい。
そうすると、この旋律は当然、一音づつ右⇒左⇒右⇒左と聞こえるようになる。これを実際に音盤で聴くとなると、クレ爺の演奏しか無い。
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こうなると皆の衆。死の前の絶望だの諦念だのとほざいて居る場合では無いのが判るであろう。絶対にレガートにはならない究極の技法だ。これぞ戦慄の旋律。なんぞとダジャレて居る場合では無い。恐ろしいばかりの情念を表現しているのを是非肝に銘じて欲しいのである。
これが、玄人である指揮者連中が気が付かない道理がなかろうと思う。それでこの曲を如何に解釈するかと云う事が、指揮者の腕前、洞察力であり、これを聴き分けるのが、この曲の楽しみ方である。

で、幻想交響曲を下敷きにしたのは、あくまで形式的なものであって、この曲の内面には大いなる秘密がある。それは、即ちチャイコ他殺説を裏付けるものである。
チャイコ自身はそれを詳らかにする事は無かった。この曲には隠しテーマがある、と云うのはチャイコ自身の言葉である。
では、その隠しテーマをこの場で解いてみようではないか。

秘密は4楽章に有りそうな気がする。と、云うのは引っ掛けだ。如何にもカラクリって居る4楽章は誰もが注目する。それでは秘密の隠し場所にはならない。そして、最もそれらしく無いと云うと、それは2楽章だ。
そうと疑わずともこの楽章は妙である。ワルツが5拍子なのだ。一つ足りないか、或いは二つ多い。これを見逃す手は無い。5とは何を意味するのか。
こうなるとまたぞろ聖書的知識が必要だ。

この辺りになると、もうかなり辟易として居る方が目に浮かぶ。そう、そこの貴方。かおりさん。
良っく読んで腑に落としてくだされ。
磔刑になったキリストは槍で5箇所を突かれて亡くなったのである。キリスト教的には5は非常に有り難くない数字だ。と、なると、この一見優雅な宮廷の舞踊を想わせる音楽は、キリスト教に対する挑戦、或いは挑発行為とも取れる。
つまり、表面的には帝政ロシアに対する哀悼の曲、或いは革命を煽る曲、と云う衣を着せながら、実はもっと恐ろしい事に、キリスト教支配に対する呪い、挑発的楽曲と云うのが隠しテーマとなって居る訳だ。
これはもうモーツァルトの魔笛と同様で、暗殺されても仕方が無い内容なのである。
ブラームスは4番で、巧妙にジュピター音型を隠し、フリギア技法等を用いて表現し、それ以後シンフォニーを書かなくなった。チャイコはこれに挑戦した。ロマン派の正当な後継としての自覚がこの曲を書かせたのである。
そして…結果は…モーツァルトと同じ運命を辿ったのである。
チャイコ先生。こんなもんで如何でしょうか。


アバド/VPO 73年録音 DG盤LP
これが出た当時大変評判になったアバドの悲愴である。ところが私は未だにこの演奏はピンと来ない。録音が良いのは判る。何せヘルマンスの録音であるから、悪かろう筈も無い。演奏自体も若々しく溌剌としたキレの良い演奏だ。しかし、この人、VPOの使い方が良く解って無いんじゃなかろうかと思う。この手の演奏であれば、当時盛んに録音していたLSOで充分だ。否、LSOの方がもっと説得力があったと思うのである。これはDGのキャスティング・ミスだ。何せあのブラ4がLSOで、悲愴がVPOである。これは全くあべこべと云うものだ。何か釈然としない内にこのさわやか系悲愴は終わって仕舞う。意味解ってるんかいな…




オーマンディ/フィラデルフィア管 68年録音 RCA盤LP
この盤は私が若き頃に夢中になって聴いて居た音盤である。何せフィラデルフィアの音響は美麗で
ある。しかも、イザと云う時の爆発力も大変魅力的だ。そしてRCAの美しい録音である。普通の若者が惹き付けられて当然の内容だ。ところが世の分別臭い大人達はこれを良しとしなかった。友達も何故カラヤンやバーンスタインでないのかと不思議がって居た。
何故この演奏の素晴らしさが解らんのか、私には理解出来ぬ。これ程完成度の高い演奏は、そうざ
らにあるもんじゃ無い。これは一級の音楽職人の業である。非常に緻密な音楽運びで、聴かせ方が実に上手い。今一度注目されて良い名演であると思う。こう云う壮麗なサウンドは滅多に聴けない。4楽章の美しくも迫力満点の演奏。それで居て奇を衒わぬ堂々たる正攻法だ。何時も言う、本気のフィラデルフィアを聴き取って欲しい。66年のカラヤン盤を凌駕する壮麗、華麗、重厚さは唖然とするばかりである。




バルビローリ/ハレ管 58年録音 PYE盤LP
何でバルビよ、と言われるかも知れぬが、バルビなんである。熱血漢バルビは矢張りこの異常に含蓄の深い曲に反応して居る。純真無垢にこの曲と対峙して居る。そう云う点では朝比奈さんの心境に近いとも言える。58年の録音ながら、このパイ・レコードの音質は中々のものである。CDも入手したが、矢張り昔のパイの音には程遠く、この良い音質を味わって戴きたいと思う。
オケの実力は決して高くないと思われるが、全力でこの難曲に挑み、音楽に共感している姿勢は、聴いて居て心が熱くなる。私が言うところのエモーショナルな演奏と云うのはこう云う演奏の事なんである。




カラヤン/BPO 71年録音 米Angel盤LP
これがgustav師匠が最も好むと仰って居る演奏である。この音盤には私は散々悩まされた。何せ国内盤は音が悪い。CDも全然良ろしく無い。EMIのオリジ盤なんて滅多に出て来ない。遂に米国Angel盤を手に入れ、漸く落ち着いたのである。東芝はこれだから疲れる。
音質は、聴いて戴ければ判ると思うが、国内盤とは全く別物である。兎に角、EMIは低音が凄い。これはクリュイタンスの時からそうなんであるが、BPOの強烈なる低音を、モロに音盤に切り込んで居るのだ。こんな事をするから東芝では全く追従出来ないのである。ブルー・ノート盤では見事な音盤を提供してくれた東芝が、何故フルヴェンやカラヤンとなると全く調子を外すのか、謎が多い。
これまたカラヤン節を堪能出来る素晴らしき演奏なんであるが、私はどうしてもヘルマンス録音のバランスが好みである。従って、ベストは76年盤となって仕舞う。師匠、申し訳ない。
音響的にはオーマンディ盤を意識したかの如く、壮麗、重厚なもので、全身を爆音が包み込むような3楽章、恐るべき深さの4楽章は聴き応え充分である。




カラヤン/BPO 66年録音 DG盤LP
この音盤も懐かしき想い出がある。カラヤンかムラヴィンかと云う熱い論議を友人と交わした想い出である。当時から私はムラヴィンを推して居たので、カラヤン推しの友人と議論に及んだのであるが、1年程経ってその友人から連絡が有り、散々聴き比べた結果、ムラヴィンの方が良いと云う結論に達した、と言うのである。これは大変な迷惑を掛けたと、反省した。と、云うのも、私は私で、その時間の経過の中で、カラヤン盤も決して劣るものでは無いと思って居たからである。キリリとした出だしの4楽章はフェドセーエフのアンダンテよりも速い。徐々にリタルダンドして深さを増して行く様は実に効果的だ。
T君。カラヤンも間違い無く素晴らしい演奏だよ。
収録した音盤は66年当時のペラジャケ盤である。




マタチッチ/チェコ・フィル 68年録音 SUPRAPHON盤CD
ブル7で際立って素晴らしき演奏をするマタチッチであるから、当然悲愴も素晴らしいのである。
この人はこのような隠しテーマには実に的確に反応して居る。含蓄が深いと云うのはこのような演奏の事だ。このオケにとって余り馴染みの無い曲なのか、出だしはかなりぎこち無い所もあるのだが、次第に乗って来る。そして、Pを幾つ並べようと、ティンパニがしっかりと聴こえて来るのは流石である。1楽章の終結部や2楽章の中間部のティンパニは生きて居る。小さいのと弱いのとでは全く意味が違う。小さくとも弱くなってはいけないのがこの曲のティンパニだ。更に4楽章のタムタムの上手さ。兎に角、間の取り方が絶妙で、打楽器が生きて居るのがマタチ爺の凄さである。静かに盛り上げられる稀有な才覚の持ち主であると思う。




ドラティ/ロンドン響 60年録音 mercury盤CD
マーキュリーのリビング・プレゼンス録音はデジタル時代の現代でも立派に通用するクォリティである。大変立派な録音であり、演奏であるが、同じハンガリー系であれば、オーマンディと云う途轍も無く完成度の高い演奏があるので中々日の目を見ない。音楽の運び自体は、達者なもので、聴かせ上手と言えるが、LSOが明る目音色である分、深みが減じて居るのが残念である。
4楽章はフェドのアンダンテよりも速く、核心を突いた演奏なんであるが、どうしてもオケが物足りない。バルビの親父のような、エモーションや共感性が足りない。その点はショルティ寄りである。




ホーレンシュタイン/ロンドン響 67年録音 ROYAL CLASSICS盤CD
ドラティと同じLSOでありながら、怪物ホーレンが指揮をすると見違えるように潤い、深みのある音楽になる。ブルックナーやマーラーを得意とするホーレンであるから、悲愴は当然素晴らしい。
比較的大人しく、郷愁を込めて謳われる1楽章であるが、充分に重い。音楽センス抜群のホーレンであるから、2楽章は美しくも深い。ポリフォニーに軸足を置いた3楽章も重々しく良い出来なんであるが、こうなるとオーマンディやバルビの方が燃焼度は高い。オケが物足りないのだ。4楽章は静かに青白く燃える。タムタムの扱いも上手いもんだと感心する。全体として良き演奏だとは思うが、カラヤンやオーマンディを超えるとは言い難い。




朝比奈/大阪フィル 82年演奏会録音 FIREBIRD盤CD
ブルックナーばかりが言われる朝比奈さんであるが、実はチャイコは十八番なんである。オケの実力を云々すると、どうしても最上なんぞとは言えないのであるが、音楽に対する共感性、ひたむきさは聴手を引き込む力がある。同じエモーショナル系の演奏のバルビ盤よりは、作りの大きさ、雄大さでは凌駕して居る。これで一流オケであったら…と思うのは何時もの事である。




サンティ/NHK響 04年演奏会録音 MEISTER MUSIC盤CD
大フィルの後だとN響も上手く聴こえる。カラヤンの54年盤と比べると、N饗は随分と進化したものだと感心する。ここまで引っ張るサンティの腕は中々のものと言えよう。録音の良さで評判になった音盤であるが、実はサンティはこの曲の真相を理解して居る。常に影が付き纏い、弾けない2楽章の舞踏会、甘い歌で誘い、壮絶なクライマックスに引っ張る4楽章。このオヤジ解かっとるなと思う。




西本/ロシア・ボリショイ響 02年録音 キング盤CD
日本橋のオーディオ・ショウで大阪に行った折、Jyoshinを覗くと西本コーナーが有り、流石は本場
だわい、と感心し、この音盤を購入し、ついでにタイガースのマーク入の紙袋をしこたま貰って来た、思い出の音盤だ。私は猫好きで虎好きなので仕方が無い。
購入動機は充分に不純なのであるが、聴いてみると、この演奏は悪くは無い。この人は単なるビジ
ュアル系ではないと思う。何だ、ミーハーだなと言われるやも知れぬが、そうである。私は何時でも女性の味方であるから、西本は良いぞと常に言うのである。大御所爺には悪いが、オケの音響も含めて、音楽の出来栄えとすると、この演奏はサンティよりはマシに聴こえる。湿り気のある2楽章。中間部の不安感も良い出来だ。3楽章の弾け感も好感が持てる。ハチャトゥリアンのガイーヌを聴いても判るが、西本は打楽器の使い方が上手い。4楽章は些か優し過ぎるが、後半の盛り上げはまずまずで、全体としては良き出来栄えである。




クレンペラー/フィルハーモニア管 63年録音 独EMI盤CD
例によって、燃えないクールなポリフォニーなんであるが、説得力たるや只事では無い。怪しく美しいのは当然で、フリーメーソンのクレンペラーであるから、この曲の真相は理解して居るのだ。
2楽章は恐怖感すら覚える。ひたすら細部に拘り全く弾けない3楽章。異形である。
そして、何と言っても聴き所は4楽章である。出だしのメロディが一音づつ左右に移動する。これがチャイコが本来表現したかった演奏効果である。沈潜し盛り上がらない異形の音楽は終始不気味である。クレンペラーでしか成し得ない恐怖の悲愴交響曲は、聴く価値充分である。

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