Quantcast
Channel: 音盤再生家の音楽話
Viewing all 81 articles
Browse latest View live

改訂版ロシアの悲愴交響曲

$
0
0
先頃の記事で、中古音盤を格安で入手した件を書いた。早速gsutav師匠から、盤の洗浄云々と云うコメントを戴いたのだが、実は、昨年の転居騒動以来、洗浄機の梱包を解いて居なかった。同時に入手したウェストミンスター盤モントゥの第9やGR盤カザルスのバッハも結構な汚れ塩梅なので、梱包を解いて始動する事にした。
私の使って居るのは、VPIの洗浄機で、同じ物をオーディオ評論家の三浦氏も使って居る。
イメージ 1
私はなるべく音盤の洗浄はしないようにして居る。音盤は何もしないのが一番と考えて居るからだ。しかし、登場以来半世紀も経つと、どうしても溝の中に塵やゴミが付着し、不快なノイズを発する。私も独自に様々な方法を考え出したのだが、最終的に洗浄機が最も効果的であると云う結論に達した。それは、VPIを使用して居る、とある中古音盤屋の音盤を購入して、その効果の程を確認して居たからである。
その音盤屋さんが、2台所有して居て、有り難い事に古い方を安く譲って戴いた。爾来大変重宝に使わせて戴いて居る。
VPI洗浄機の良い所は、溝から掻き出した汚れを、洗浄液と共にバキュームで吸い取って仕舞う所である。超音波洗浄と云う物もあるが、溝に入った液体をそのまま乾燥させるのでは駄目だ。液体はとっとと排除しなければならない。従ってバキューム装置付きの物が良い。塵と液体の両方が吸い出される。

作業をしながら、矢張り欲望がムラムラと湧き出て来る。この所盛んにアップして居る悲愴交響曲も、永年の出し入れ、再生で、表面上には見えぬ塵が入り込んで、本来の音質では無い物が有り、これをどうにかしたいと云う欲求が抑えられない。
そこで、前記事でアップを見送ったコンドラシン盤と、最も古くから愛好して居るムラヴィンスキー盤を綺麗にして、記事を改訂する事とした。
ムラヴィン盤は、過去記事の音質と比較して戴けると、洗浄効果が如何なるものかを確認出来ると思う。
http://blogs.yahoo.co.jp/quontz/54989756.html
マゼールやホーレンシュタインはどうした、と云う突っ込みもあろうが、取り敢えずはロシアの指揮者とロシアのオケと云う括りで纏めてみた。




スヴェトラノフ/ソヴィエト国立響 67年録音 shinsekai盤LP
30代のスヴェトラの指揮である。クソ真面目で楷書風な演奏だが、金管の鳴らし振りは爽快とも言える。だが最大の聴き処である4楽章の掘り下げは甘い。きっちりと穏やかで、断末魔のような壮絶感と云う所までは至らない。曲が難曲だけに1番の演奏の時のように、形振り構わず鳴らし捲ると云う開き直りが無い。構え過ぎ、考え過ぎて音楽を小さくして仕舞ったようだ。最後の終結部での金管の鳴らしはちょっと面白い所がある。こう云うアクセントをもっとふんだんに散り嵌めれば良かったと思う。




ロジェストヴェンスキー/モスクワ放送響 73年録音 shinsekai盤LP
ロジェヴェンは聴かせ方が上手い。ポリフォニックな鳴らし方が新鮮な感覚だ。大らかに金管を鳴らしては居るが、煩さは無く、心地良い響きだ。聴き所は2楽章で、中間部の重苦しいティンパニをここまで強調して居る演奏は珍しい。対比が効いて結構な演奏である。
 1楽章、3楽章は無難な出来で、取り立てて褒める所も貶す所も無い。しかし、4楽章は如何にも穏当な表現で生ぬるい。聴き易いのであるが、この音楽はもっともっと壮絶な内容だ。




フェドセーエフ/モスクワ放送響 81年録音 Victor盤LP
スヴェトラもロジェヴェンもフェドも、ほぼ同年代の指揮者だが、中ではフェドが音楽的に一番面白い。テクニカルな面よりは、エモーショナルな聴かせ方をする人だ。オケに多少の粗があろうが、演奏の熱でついつい聴き入って仕舞う所のある人だ。
この演奏は、ロジェヴェンよりも尚一層ポリフォニックな表現が生きて居て面白い。1楽章の荒々しいダイナミックも赤裸々で好感が持てるものだ。2楽章は出だしから何処か寂し気なのが気に掛かる。中間部も取り立てて重苦しさを強調する事無く、さらりとかわして居る。3楽章は良いテンポで、カラヤンを想わせる気持ちの良い躍動感だ。
 4楽章は沈鬱になり過ぎた。フェドであればもっと壮絶で無茶苦茶な暴れ方を期待して仕舞うのであるが、ここは少しばかり考え過ぎた。意外と常識的な範囲に収まって仕舞った。




フェドセーエフ/モスクワ放送響 91年録音 Victor盤CD
この盤は、自筆譜による世界初録音と云う謳い文句で出されたものだ。ブルックナー的に言えば原典版と云うやつだ。
 要するに、現在通用して居る楽譜は、例の追悼演奏会で演奏する為に手が加えられたものである。
従って必要以上に悲劇的であり、嘆き、絶望と云う印象を植え付ける効果がある道理である。フェドはそこに注目した。チャイコの悲愴は、悲劇では無く、パセティックなのだと云う解釈だ。これは私も諸手を挙げて大賛成だ。しかし、ムラヴィン爺は、こんな事を殊更に説明しなくとも、音楽でこれを表現して居たではないか。そしてカラヤンはもっと踏み込んで、壮絶無比なる音楽に仕立てたではないか。
フェドはどうか… 中々にムラヴィン寄りの好演だと言える。1楽章は妙な粘りは無く、キビキビとして好ましい。2楽章は旧盤とは違いクッキリと明るい。中間部のティンパニもそこそこ鳴って居て良し。3楽章は残念だ。旧盤の方が余程出来は良い。
 4楽章は良いと思う。音楽自体が良く出来て居るので、妙な演出は要らんのだ。このように率直で情熱的な演奏が本当であると思う。
イメージ 2




イワノフ/ソヴィエト国立響 録音年不詳 shinsekai盤LP
 若い衆はコンスタンチン・イワノフは知るまい。この名を知って居るとすれば、相当なベテランか、或いは変人的なマニアだと思う。私はムラヴィンの次にイワノフを聴いて居たので、全く違和感は無い。ベートーヴェンに似て居ると言われた程のゴツイ面相であるが、演奏も又ベートーヴェン的でゴツイ。この盤を後半に持って来たと云うのは、矢張り私はこの演奏を最も好んで居るからである。流石に音質は今となっては古いと感ずるが、演奏は完全に私好みである。
 何せ古株なだけに堂々として演奏に気負いが無い。この余裕が懐の深さとなって音の古さを超えて今も心に響くのである。殊に4楽章の深い音楽。終結部の情念がここまで切々と心に染み入る演奏も珍しい。カラヤン程の迫力は無いにしても、深さでは引けを取らないであろう。




コンドラシン/モスクワ・フィル 65年録音 Victor盤LP
前回は余りのノイズにアップを見送ったが、この盤も洗浄でかなり聴けるようになった。
コンドラシンは私は好きなタイプの指揮者である。余りマイナスイメージの無い人なのだ。ムラヴィンやイワノフの次の世代のホープがコンドラシンと云う立ち位置だ。
例えば、ムラヴィンの弟子でザンデルリンクと云う人が居るが、この人は私にとっては鬼門で、何を聴いてもシックリと来ない。それに比してコンドラシンは、何を聴いても何かしらの感動や感心が残るのだ。
この悲愴も、ムラヴィン風であるが、ムラヴィンよりも遥かに血の通った演奏なのである。音楽センスが良い。全体の構成が見事で、部分部分は充分にエモーショナルでありながら、音楽の流れは実に良く計算されている。音質は余り良くないが、充分に好感の持てる演奏である。




ムラヴィンスキー/レニングラード・フィル 60年録音 DG盤LP
剛直でストレートな表現で、完璧なアンサンブルが魅力だ。DGの録音が又素晴らしいもので、この当時良くここまでの録音が出来たものと感心する。ところで、たまにgustav師がこぼしているのがこの演奏の10吋盤の存在である。これは兎に角一言で言えば、バカヤロー!と云う程の劣悪なる音質の、最低な音盤である。書いて居る内に思い出したが、私が最初に聴いたのは、この10吋盤だったような気がする。それで、マルティノン盤が神懸りな名演に聴こえた訳である。
しかし、12吋LPで聴くムラヴィンスキーは凄まじく、怪物的な名演である。私的にはもっとエモーショナルな表現を好むが、ザッハリッヒ系の演奏は嫌いではない。愛聴盤の一枚である。
今回、洗浄後に改めて聴くと、見通しが良くなり、昔の感動が蘇って来るようだ。多くの演奏を聴いた後で、矢張りこの演奏の凄さを再認識した次第である。


悲愴交響曲とは何か

$
0
0
当地も漸く涼しい秋になり、快適に過ごせる時期となって来た。もう一月もすれば今度は寒さがやって来る。
妙な事に、今年は栗鼠を多く見掛ける。我が家の周りは樹木が多く、窓の外を栗鼠が走っている情景を見る事が多い。栗鼠と言っても、ここいらの奴は猫程の大きさがある。耳も長くナキウサギよりは余程ウサギ風である。このデカイ栗鼠が、すぐ間近を大きな尾を靡かせて走って居る姿は壮観である。
イメージ 1
このトトロみたいな奴がエゾリスで、北海道特有の生き物だ。
イメージ 2
走って居る様は、一見栗鼠には見えぬが、止まると確かに栗鼠だ。

因みに、隣のロシアのリスはどうかと、検索してみたが、矢張り似ている。キタリスと云うらしい。
イメージ 3
ただ、不思議な事に末端の毛色が、ロシア人の如くブロンド?(或いは赤毛)である。我が庭の奴はちゃんと黒毛であるから、良くしたものである。キタリスが樺太から来てエゾリスとなったとは思うが、毛色が変わったのは大いなる謎だ。

チャイコの悲愴交響曲にも謎が多い。何故悲愴なのか、とか、誰が名付けたのか、とか、チャイコの死因は何か、等々、兎に角謎が多い。
色々な演奏の色々な解釈を聴きながら、謎解きをするのも中々オツなもんである。


チャイコはロシア人なので、当然、日本語でHisoなんぞと言う訳も無く、普通にロシア語で発想して居たと考えられる。と、書くと、スコアに書かれて居るタイトルはフランス語ではないか、なんぞと突っ込む御仁が居ないとは限らぬ。しかも、初演前のスコアのタイトルにSimphonie Pathetiqueとフランス語で書かれていたと云うから驚いて良い。何しろ、未だにこのタイトルは、初演後に弟モデストがпатетическая(パテティチェスカヤ)ではどうか、と提案した、と信じて居る者は多いと思う。これが、初演前にスコアに書かれて居たとなると、この逸話は全くの与太話と云う事になる訳だ。
Simphonie Pathetiqueとなると、思い出して戴きたいのはSymphonie fantastiqueである。そう、幻想交響曲を思い浮かべて戴きたい。是非に。
チャイコはパクったのである。ベルリオーズの幻想交響曲になぞらえて悲愴交響曲は出来て居る。これは押えて置いて欲しい事項である。
1楽章で俯瞰的なテーマを提示し、2楽章での舞踏会、3楽章の行進曲、4楽章での結論。見事に一致する。幻想交響曲の野の風景のみが入っていないが、この不安一杯の野の風景は2楽章中間部にちゃんと組み込まれて居る。チャイコさん、相当に幻想交響曲にインスパイアされて居る。
で、あるから、当然スコアにはフランス語でSimphonie Pathetiqueと書き込んだ。
そもそも、チャイコは5番で、モットーと呼ばれる動機を用い、幻想交響曲に倣った前科がある。
当然それをより昇華した形に仕上げたと考えるには充分なのである

それに、チャイコ一族は過去にフランスから移住した事もあり、非常にフランスに対する憧憬、郷愁があったと思われる。それでフランス旅行後に猛烈な勢いで悲愴交響曲を書き上げたのである。

フランス語のPathetiqueには、崇高な、感傷的な、等と云う意味があり、ギリシア語となるとパッシヴな、と云うような意味にもなる。
そしてロシア語のпатетическая(パテティチェスカヤ)となると、熱狂的・感情的・爆発的と云う意味合いである。と、以上の事から総合的に考えると、耐え忍び忍従して居るが内面には崇高で爆発的なエネルギーを溜め込んだ、革命前のロシアの状況と見事に重なり合う。
死を前にした絶望、なんぞと云う事は断じて無いのである。そして、その爆発的感情を、フランス流に格好良くコーティングしたのはチャイコのセンスなのだ。
それが、海峡一つ渡って日本に来ると、イメージはエゾリスの如く変貌して仕舞う。悲しくやるせないドン底の曲なんぞと思われて仕舞う訳だ。これでは渾身の力作を残したチャイコ先生は浮かばれない。
この秘めたエネルギーを象徴するのが第4楽章の冒頭のメロディだ。このメロディは、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンで一音づつ交互に奏される。大変に手の込んだ作りなのである。
ここで思い出して戴きたいのは、当時のオーケストラ配置である。御忘れの方は私の過去記事を参照願いたい。
そうすると、この旋律は当然、一音づつ右⇒左⇒右⇒左と聞こえるようになる。これを実際に音盤で聴くとなると、クレ爺の演奏しか無い。
イメージ 4
こうなると皆の衆。死の前の絶望だの諦念だのとほざいて居る場合では無いのが判るであろう。絶対にレガートにはならない究極の技法だ。これぞ戦慄の旋律。なんぞとダジャレて居る場合では無い。恐ろしいばかりの情念を表現しているのを是非肝に銘じて欲しいのである。
これが、玄人である指揮者連中が気が付かない道理がなかろうと思う。それでこの曲を如何に解釈するかと云う事が、指揮者の腕前、洞察力であり、これを聴き分けるのが、この曲の楽しみ方である。

で、幻想交響曲を下敷きにしたのは、あくまで形式的なものであって、この曲の内面には大いなる秘密がある。それは、即ちチャイコ他殺説を裏付けるものである。
チャイコ自身はそれを詳らかにする事は無かった。この曲には隠しテーマがある、と云うのはチャイコ自身の言葉である。
では、その隠しテーマをこの場で解いてみようではないか。

秘密は4楽章に有りそうな気がする。と、云うのは引っ掛けだ。如何にもカラクリって居る4楽章は誰もが注目する。それでは秘密の隠し場所にはならない。そして、最もそれらしく無いと云うと、それは2楽章だ。
そうと疑わずともこの楽章は妙である。ワルツが5拍子なのだ。一つ足りないか、或いは二つ多い。これを見逃す手は無い。5とは何を意味するのか。
こうなるとまたぞろ聖書的知識が必要だ。

この辺りになると、もうかなり辟易として居る方が目に浮かぶ。そう、そこの貴方。かおりさん。
良っく読んで腑に落としてくだされ。
磔刑になったキリストは槍で5箇所を突かれて亡くなったのである。キリスト教的には5は非常に有り難くない数字だ。と、なると、この一見優雅な宮廷の舞踊を想わせる音楽は、キリスト教に対する挑戦、或いは挑発行為とも取れる。
つまり、表面的には帝政ロシアに対する哀悼の曲、或いは革命を煽る曲、と云う衣を着せながら、実はもっと恐ろしい事に、キリスト教支配に対する呪い、挑発的楽曲と云うのが隠しテーマとなって居る訳だ。
これはもうモーツァルトの魔笛と同様で、暗殺されても仕方が無い内容なのである。
ブラームスは4番で、巧妙にジュピター音型を隠し、フリギア技法等を用いて表現し、それ以後シンフォニーを書かなくなった。チャイコはこれに挑戦した。ロマン派の正当な後継としての自覚がこの曲を書かせたのである。
そして…結果は…モーツァルトと同じ運命を辿ったのである。
チャイコ先生。こんなもんで如何でしょうか。


アバド/VPO 73年録音 DG盤LP
これが出た当時大変評判になったアバドの悲愴である。ところが私は未だにこの演奏はピンと来ない。録音が良いのは判る。何せヘルマンスの録音であるから、悪かろう筈も無い。演奏自体も若々しく溌剌としたキレの良い演奏だ。しかし、この人、VPOの使い方が良く解って無いんじゃなかろうかと思う。この手の演奏であれば、当時盛んに録音していたLSOで充分だ。否、LSOの方がもっと説得力があったと思うのである。これはDGのキャスティング・ミスだ。何せあのブラ4がLSOで、悲愴がVPOである。これは全くあべこべと云うものだ。何か釈然としない内にこのさわやか系悲愴は終わって仕舞う。意味解ってるんかいな…




オーマンディ/フィラデルフィア管 68年録音 RCA盤LP
この盤は私が若き頃に夢中になって聴いて居た音盤である。何せフィラデルフィアの音響は美麗で
ある。しかも、イザと云う時の爆発力も大変魅力的だ。そしてRCAの美しい録音である。普通の若者が惹き付けられて当然の内容だ。ところが世の分別臭い大人達はこれを良しとしなかった。友達も何故カラヤンやバーンスタインでないのかと不思議がって居た。
何故この演奏の素晴らしさが解らんのか、私には理解出来ぬ。これ程完成度の高い演奏は、そうざ
らにあるもんじゃ無い。これは一級の音楽職人の業である。非常に緻密な音楽運びで、聴かせ方が実に上手い。今一度注目されて良い名演であると思う。こう云う壮麗なサウンドは滅多に聴けない。4楽章の美しくも迫力満点の演奏。それで居て奇を衒わぬ堂々たる正攻法だ。何時も言う、本気のフィラデルフィアを聴き取って欲しい。66年のカラヤン盤を凌駕する壮麗、華麗、重厚さは唖然とするばかりである。




バルビローリ/ハレ管 58年録音 PYE盤LP
何でバルビよ、と言われるかも知れぬが、バルビなんである。熱血漢バルビは矢張りこの異常に含蓄の深い曲に反応して居る。純真無垢にこの曲と対峙して居る。そう云う点では朝比奈さんの心境に近いとも言える。58年の録音ながら、このパイ・レコードの音質は中々のものである。CDも入手したが、矢張り昔のパイの音には程遠く、この良い音質を味わって戴きたいと思う。
オケの実力は決して高くないと思われるが、全力でこの難曲に挑み、音楽に共感している姿勢は、聴いて居て心が熱くなる。私が言うところのエモーショナルな演奏と云うのはこう云う演奏の事なんである。




カラヤン/BPO 71年録音 米Angel盤LP
これがgustav師匠が最も好むと仰って居る演奏である。この音盤には私は散々悩まされた。何せ国内盤は音が悪い。CDも全然良ろしく無い。EMIのオリジ盤なんて滅多に出て来ない。遂に米国Angel盤を手に入れ、漸く落ち着いたのである。東芝はこれだから疲れる。
音質は、聴いて戴ければ判ると思うが、国内盤とは全く別物である。兎に角、EMIは低音が凄い。これはクリュイタンスの時からそうなんであるが、BPOの強烈なる低音を、モロに音盤に切り込んで居るのだ。こんな事をするから東芝では全く追従出来ないのである。ブルー・ノート盤では見事な音盤を提供してくれた東芝が、何故フルヴェンやカラヤンとなると全く調子を外すのか、謎が多い。
これまたカラヤン節を堪能出来る素晴らしき演奏なんであるが、私はどうしてもヘルマンス録音のバランスが好みである。従って、ベストは76年盤となって仕舞う。師匠、申し訳ない。
音響的にはオーマンディ盤を意識したかの如く、壮麗、重厚なもので、全身を爆音が包み込むような3楽章、恐るべき深さの4楽章は聴き応え充分である。




カラヤン/BPO 66年録音 DG盤LP
この音盤も懐かしき想い出がある。カラヤンかムラヴィンかと云う熱い論議を友人と交わした想い出である。当時から私はムラヴィンを推して居たので、カラヤン推しの友人と議論に及んだのであるが、1年程経ってその友人から連絡が有り、散々聴き比べた結果、ムラヴィンの方が良いと云う結論に達した、と言うのである。これは大変な迷惑を掛けたと、反省した。と、云うのも、私は私で、その時間の経過の中で、カラヤン盤も決して劣るものでは無いと思って居たからである。キリリとした出だしの4楽章はフェドセーエフのアンダンテよりも速い。徐々にリタルダンドして深さを増して行く様は実に効果的だ。
T君。カラヤンも間違い無く素晴らしい演奏だよ。
収録した音盤は66年当時のペラジャケ盤である。




マタチッチ/チェコ・フィル 68年録音 SUPRAPHON盤CD
ブル7で際立って素晴らしき演奏をするマタチッチであるから、当然悲愴も素晴らしいのである。
この人はこのような隠しテーマには実に的確に反応して居る。含蓄が深いと云うのはこのような演奏の事だ。このオケにとって余り馴染みの無い曲なのか、出だしはかなりぎこち無い所もあるのだが、次第に乗って来る。そして、Pを幾つ並べようと、ティンパニがしっかりと聴こえて来るのは流石である。1楽章の終結部や2楽章の中間部のティンパニは生きて居る。小さいのと弱いのとでは全く意味が違う。小さくとも弱くなってはいけないのがこの曲のティンパニだ。更に4楽章のタムタムの上手さ。兎に角、間の取り方が絶妙で、打楽器が生きて居るのがマタチ爺の凄さである。静かに盛り上げられる稀有な才覚の持ち主であると思う。




ドラティ/ロンドン響 60年録音 mercury盤CD
マーキュリーのリビング・プレゼンス録音はデジタル時代の現代でも立派に通用するクォリティである。大変立派な録音であり、演奏であるが、同じハンガリー系であれば、オーマンディと云う途轍も無く完成度の高い演奏があるので中々日の目を見ない。音楽の運び自体は、達者なもので、聴かせ上手と言えるが、LSOが明る目音色である分、深みが減じて居るのが残念である。
4楽章はフェドのアンダンテよりも速く、核心を突いた演奏なんであるが、どうしてもオケが物足りない。バルビの親父のような、エモーションや共感性が足りない。その点はショルティ寄りである。




ホーレンシュタイン/ロンドン響 67年録音 ROYAL CLASSICS盤CD
ドラティと同じLSOでありながら、怪物ホーレンが指揮をすると見違えるように潤い、深みのある音楽になる。ブルックナーやマーラーを得意とするホーレンであるから、悲愴は当然素晴らしい。
比較的大人しく、郷愁を込めて謳われる1楽章であるが、充分に重い。音楽センス抜群のホーレンであるから、2楽章は美しくも深い。ポリフォニーに軸足を置いた3楽章も重々しく良い出来なんであるが、こうなるとオーマンディやバルビの方が燃焼度は高い。オケが物足りないのだ。4楽章は静かに青白く燃える。タムタムの扱いも上手いもんだと感心する。全体として良き演奏だとは思うが、カラヤンやオーマンディを超えるとは言い難い。




朝比奈/大阪フィル 82年演奏会録音 FIREBIRD盤CD
ブルックナーばかりが言われる朝比奈さんであるが、実はチャイコは十八番なんである。オケの実力を云々すると、どうしても最上なんぞとは言えないのであるが、音楽に対する共感性、ひたむきさは聴手を引き込む力がある。同じエモーショナル系の演奏のバルビ盤よりは、作りの大きさ、雄大さでは凌駕して居る。これで一流オケであったら…と思うのは何時もの事である。




サンティ/NHK響 04年演奏会録音 MEISTER MUSIC盤CD
大フィルの後だとN響も上手く聴こえる。カラヤンの54年盤と比べると、N饗は随分と進化したものだと感心する。ここまで引っ張るサンティの腕は中々のものと言えよう。録音の良さで評判になった音盤であるが、実はサンティはこの曲の真相を理解して居る。常に影が付き纏い、弾けない2楽章の舞踏会、甘い歌で誘い、壮絶なクライマックスに引っ張る4楽章。このオヤジ解かっとるなと思う。




西本/ロシア・ボリショイ響 02年録音 キング盤CD
日本橋のオーディオ・ショウで大阪に行った折、Jyoshinを覗くと西本コーナーが有り、流石は本場
だわい、と感心し、この音盤を購入し、ついでにタイガースのマーク入の紙袋をしこたま貰って来た、思い出の音盤だ。私は猫好きで虎好きなので仕方が無い。
購入動機は充分に不純なのであるが、聴いてみると、この演奏は悪くは無い。この人は単なるビジ
ュアル系ではないと思う。何だ、ミーハーだなと言われるやも知れぬが、そうである。私は何時でも女性の味方であるから、西本は良いぞと常に言うのである。大御所爺には悪いが、オケの音響も含めて、音楽の出来栄えとすると、この演奏はサンティよりはマシに聴こえる。湿り気のある2楽章。中間部の不安感も良い出来だ。3楽章の弾け感も好感が持てる。ハチャトゥリアンのガイーヌを聴いても判るが、西本は打楽器の使い方が上手い。4楽章は些か優し過ぎるが、後半の盛り上げはまずまずで、全体としては良き出来栄えである。




クレンペラー/フィルハーモニア管 63年録音 独EMI盤CD
例によって、燃えないクールなポリフォニーなんであるが、説得力たるや只事では無い。怪しく美しいのは当然で、フリーメーソンのクレンペラーであるから、この曲の真相は理解して居るのだ。
2楽章は恐怖感すら覚える。ひたすら細部に拘り全く弾けない3楽章。異形である。
そして、何と言っても聴き所は4楽章である。出だしのメロディが一音づつ左右に移動する。これがチャイコが本来表現したかった演奏効果である。沈潜し盛り上がらない異形の音楽は終始不気味である。クレンペラーでしか成し得ない恐怖の悲愴交響曲は、聴く価値充分である。

癒しのモーツァルト

$
0
0
最近つくづく思うのであるが、兎に角私の周りには病人が多い。斯く言う私自身も、そう褒められたものでは無いとは思うが、これまで入院に至るような大病は患った事は無い。これも人一倍音楽を聴き続けて来た御蔭と決め込んで居る。
と云っても無闇に自己暗示で言うのでは無い。これまでの経験上、確かに音楽による体調の変化が
有ると言えるのである。
世の中には机上の論理で、音楽療法なんぞはトンデモ理論である、と論う(あげつらう)輩も居る
のであるが、科学的に根拠が無いと言うのであれば、科学的な手段で根拠が無いと反論すべきで、反論の為の反論であれば某新聞社と同様、世の進歩や向上を害する何物でもない。

私は医学者でも科学者でも無いので、科学的論拠を挙げよと言われても不可能であるが、対比実験では効果を確認して居る。
同一種類のペットボトル入りコーヒーとボトルワインを2本づつ用意し、一方を全く音楽環境の無
い場所、もう一方はスピーカーの前に置き、一週間モーツァルトを聴かせ続け、50人程の聴講者の前で開封し、味を確認して戴いた。先入観を廃する為に、私自身は口にしない。
この結果、何度やってもモーツァルトコーヒーやモーツァルトワインは味がまろやかになる。コー
ヒーであれば苦味が減じ、ワインであれば渋味、酸味が減じて仕舞うのである。これを以て味が美味くなったとは決して言う事は出来無い。コーヒーの苦味やワインの渋味、酸味は味わいの重要な要素であるから、これが減じて仕舞うと云うのは、所謂、気が抜けた味、と云う表現が当て嵌る。
然し乍ら、モーツァルトを聴かせた飲料は何らかの変化が起きると云う事は、確かに言える事なの
である。
これを利用して居る味噌蔵であるとか、ワイン蔵であるとか、ビニールハウスも存在して居るので
あるから、一概に私一人のトンデモ理論とは言い切れない。
科学的証明と云う事は、科学界では恐らく真剣には行われて居らぬし、現状の科学水準では解明不
能であると思われる。この一点で論争しても何の益にもならぬ。時間の無駄である。
誰にでも判る変化がある、と云う事実は、膨大な予算を注ぎ込んで居る地震予知なんぞよりも遥か
に現実的なのである。

斯界の第一人者と言われる和合治久氏の説も、ネット上の口先だけの机上空論者は、科学的根拠の無いトンデモ学説であると決め付けて居るが、科学的に証明された所で、相対性理論並に、一般人には理解不能である。これが証明出来る位であれば、その前に優秀で不老長寿の人間を創り出す事が出来るであろう。
当記事では、難しいメカニズムを解説する心算は無い。心地良き音楽を聴いて、癒されて戴きたい
、と云う事が趣旨であるから、流れのみを御示し致したいと思う。
和合氏の解説によるフローチャートを御覧戴きたい。
イメージ 1
簡単に言うと、ストレスは万病の元であると云う事である。

で、私も確認した、モーツァルト効果を、図示したものが以下である。
イメージ 2



何Hzの周波数がどうの、とか、1/fゆらぎがこうの、なんぞと言っても何の説得力も無い。私の選んだ楽曲をウットリと聴いて戴きたいと思う。
ウットリと、と云うのは、それなりに音楽と対峙して戴きたいと云う事である。私の経験上、BGM的に流し乍ら家事をやった、とか、事務仕事をした、なんぞと云うのは殆ど効果がないのである
。モーツァルトの音楽に乗って欲しいのである。

ピアノ協奏曲第23番K.488
ルービンシュタイン/ウォーレンステイン/RCAビクター響 61年録音 RCA盤CD
私の大好きなルービン爺である。ベートーヴェンでは天下無類の気魄を剥き出しにした爺であるが、モーツァルトでは一転、何とも優しい音楽である。終生女好きであった懐の深い巨匠であるから、愛しい女性に接する如く、優しく滑らかな演奏なのだ。淡々とモーツァルトの音楽のみを提示して行き、2楽章などは余りにも淡々と音を拾う音楽に、思わず悲しくなる程である。3楽章では、待ってましたとばかりに気が乗って居る。到底74歳とは思えぬ流麗さだ。然し終始一貫、粗さが無いのは見事なもんである。



バレンボイム(ピアノ・指揮)/イギリス室内管 71年録音 EMI盤CD
ルービン爺の後にバレンボイムを聴くと、音楽のイメージがまるで違って聴こえる。モーツァルトの音楽は陰も陽も併せ持って居るのだが、バレンボイムの演奏はキラキラと輝き、陰の部分は感じさせない。2楽章もクッキリととした輪郭で、単純で美しい音楽だ。3楽章の跳ね飛ぶ躍動感からは元気を貰えるであろう。



ゼルキン/アバド/ロンドン響 82年録音 DG盤CD
ゼルキンの演奏は近寄り難い孤高の演奏と云う感じがする。訥々として素朴であるが、内に込められた情感は何にも替え難く心を打たれるものがある。此処迄の芸風に至ったゼルキンの演奏を繰り返し味わえると云うのは人間に生まれた幸せである。ここまで感動的な2楽章と云うのは稀有な演奏である。ゼルキン自身が感動して居るので、聴き手も感動する。3楽章も訥々とした風情は変わらない。伴奏のアバド/LSOもゼルキンに引き摺られるように美味く付けて居る。この無常の味わいを噛み締めて聴いて戴きたい。



ポリーニ/ベーム/ウィーン・フィル 76年録音 DG盤CD
この演奏は最も美しいモーツァルトであると思う。この曲は煌くように書かれて居るのだが、ポリーニのピアノは將にシルクの艶と肌触りで、この曲には打って付けである。3楽章になると煌きが輝きになり、VPOの響きと溶け合い空前絶後の美しさである。ゼルキンが質朴の極とすれば、ポリーニは華麗の極である。しかし何れも感動的なモーツァルト演奏に他ならない。
ポリーニのピアノを指端の芸と謗る輩も居るようだが、そう云う輩はモーツァルトの音楽を全く理解して居ない。オケの音に引けを取らないポリーニのピアノはモーツァルトの美を明から様に浮き立たせるのである。



モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」K.618
フロール/フィルハーモニア管/ロンドン・ヴォイシズ 90年録音 RCA盤CD
死の半年前に書き上げた作品である。この曲は全く美しく、深く、感動的である。幼少時に教会で育った私は、未だにこう云うものには弱い。刷り込み効果である。今ではキリスト教を批判する事が多い私ではあるが、この曲を聴くと条件反射的にウルウルとして仕舞う。条件反射は大脳の及ばぬ部分であるから、致し方ない。
反教会的なモーツァルトであるが、このようなミサ曲でも最高の曲を書けたのである。言葉の内容は悲し過ぎるので理解しなくても良いが、心落ち着く美しき音楽である。
フロールの演奏はゆったりとしたテンポで間を大きく取り、強弱も控えめで、キリストの最後を克明に説明して居るようだ。



ムーティ/ベルリン・フィル/ストックホルム室内合唱団 87年録音 EMI盤CD
流石にムーティは上手い。音楽の流れが自然で聴き易いのである。BPOは濁り無く美しい音響で、合唱との折り合いが良い。曲の美しさが自然と心に染みる。



バーンスタイン/バイエルン放送響/バイエルン放送合唱団 90年録音 DG盤CD
私はこの曲の最上の演奏は、このバーンスタイン盤であると確信する。バーンスタインは典礼用としてでは無く、音楽としてこの曲を捉えて居る。オケとコーラスのバランスも上手い。何より音楽的に、短い物語の起承転結が表現仕切れて居るのである。この曲はこの一枚があれば良い位である。



クラリネット協奏曲K.622
プリンツ/ミュンヒンガー/ウィーン・フィル 62年録音 DECCA盤CD
この曲は死の2か月前の作品である。地球上で最も美しい音楽、と評する人も居る曲だが、余りの美しさに自殺を思い止まった者が居たとか、逸話も多く残っている。モーツァルトで癒されたいと云う場合の最適な曲であろう。
この曲はどんな曲?と云う場合、最適なのはプリンツ/ミュンヒンガー盤である。ふくよかなプリンツの音色は刺激が無く聴き易い。クラリネットは場合によっては脳を破壊する程強烈な音響を発する楽器であるが、プリンツの音色はまろやかだ。プリンツの独奏であれば指揮者は要らないのでは?と想わせる程のオケとの一体感が素晴らしい。



ライスター/カラヤン/ベルリン・フィル 71年録音 EMI盤CD
私が大好きなライスターの演奏だ。クラリネットの巨人である。これ位美しく、上手い人は他には見当たらない。あの分厚いBPOの音響の中で、ライスターのクラリネットだけはスっと浮き立って来る。心奪われる瞬間だ。
ライスターの演奏は数多く有るが、矢張り大御所カラヤンとの音盤を聴くべきだ。出だしが鳴り出した瞬間に全く役者の違いを思い知らされる。何時も言う事だが、美しい音楽を美しく演奏する事にかけてはカラヤンの右に出るものは居ない。ライスターの演奏は完璧なので、私が何かを言う必要は無い。プリンツとライスターの差は、そのままVPOとBPOの差であると言って良い。



マイヤー/フォンク/ドレスデン国立管 90年録音 EMI盤CD
これは私のイチオシ盤である。決して美しい女性だから、と云う訳では無い。マイヤーの独特の音色が心に染み入るのである。
80年代。一人の若き女性クラリネット奏者がクラシック音楽会を揺るがした。私と同様、カラヤン先生もマイヤーの音色に魅せられたのだ。兎に角、マイヤーの音色は独特で七色の音色がする。ズーッと心に染み入る不思議な感覚なのだ。BPOにはライスターが君臨していて、かの巨匠とマイヤーは全く別の異次元の音色である。であるから、当然オケからは弾かれて仕舞う。凄過ぎて嫌われた人だ。


カラヤンの時計と我がリハビリ

$
0
0
前回の記事から随分と時が経って仕舞った。
この間、御心配戴いた方、御質問等を戴いた方には御無礼の段、御容赦賜り
たくこの場を以てお詫び申し上げます。

家内の癌手術、治療から発し、私の目の調子が悪くなり、多少良くなったと思えば、血尿が出て、兎に角気力自体も萎えて仕舞い、この頃漸く気力が戻りつつある状態。
今回は長らく休養の為、リハビリ的な雑文であります。

元来冬は体調がすぐれないのであるが、此の度ばかりはさしもの私も多少覚悟を決めた。
年明けに息子に、ワシが死んだら時計のコレクションはお前に譲る、と言い
渡した。
不肖の息子は、音楽関係には全く頓着が無い。当然オーディオもオの字も解
さない唐変木であるから、安心して後を託せるのは時計とライターのコレクション位のものである。
取り敢えず、目ぼしき時計を磨き上げ、整備した。
新品同様に磨き上がった古き時計は、中々にオツなものである。コレクショ
ンであるから普段は殆ど装着などしないのだが、自分自身も時計も相当に歳を取って来た現今、死ぬまでの間これらを使う事に決めた。

私は元来アナログ好きである。であるから、音盤もLP盤を主に聴くし、再生針にも拘りがある。
時計に関しても又然りで、水晶発振(QUARTZ)時計なんぞには見向きもしな
い。ゼンマイ駆動の機械式時計をこよなく愛するのである。
機械式時計もトーンアームもカートリッジも、60年代に完成されたと思う
。私は未だに60年代のGraceやSOUNDのアームを何の不自由もなく使って居る。時計も50~60年代の手巻きなのである。
ゼンマイを巻く行為が面倒であると言う御仁も居るらしいが、私からすると
、電池時計の電池が切れた時こそ厄介である。時計屋に持ち込むと¥1000程取られる。私は工具があるので、裏蓋は自分で開けるが、老眼には些か厄介な作業だ。電池は百均で2個入り¥100で手に入るので、時計屋に委ねる事は無いが、何時電池が切れるか判らぬのは何とも心許ない。
機械式時計にも自動巻きと言う便利な仕掛けがある。ゼンマイ如きを面倒だ
と言う御仁は自動巻きが良かろう。
私は手巻き時計が好きなので、コレクションも手巻き中心である。
私が小学校の時分は、日直が朝、教室の時計のゼンマイを巻くと云う仕事が
あったものだが、今時の子供は時計がゼンマイで動くと云う事自体を知らぬに相違ない。
寝る前に愛着のある時計のゼンマイを巻くと云う習慣は、再生針を磨くのと同様、私の心を落ち着かせるに効果がある作業だ。

そもそも私が腕時計に興味を持ったのは、カラヤン先生の所為なのである。
最初にカラヤンのDGデビュー盤のドヴォルジャークの「新世界」を手にし
た時の衝撃は、過去の記事にも書いた事なので繰り返さないが、このジャケ一つで私の受けた影響は計り知れないものがある。
イメージ 1
このジャケのカラヤンがカッコイイのである。
髪型もさる事ながら、黒のトックリ、先の尖っていない短めのタクトまでも揃えたが、何と言ってもこの左腕の時計である。黒文字盤の黒バンド。何とも粋なんである。
この時計が何であるか、未だに判別出来ないのであるが、私は勝手にオメガであると決め付けていた。
60年代のオメガは絶好調である。宇宙飛行士はオメガのスピードマスター(スピマス)を付けている。カラヤン程の人はオメガを付けて居るに相違あるまいと思い込んで居る。
オメガのスピマスと言えば、月面に降り立った唯一の時計、であるとか、アポロ13が無事帰還出来たのはスピマスのお陰である、とか、伝説は枚挙の暇がない。
私の中ではカラヤンの時計はオメガと勝手に決めていたのであるが、ジャケからは何の確証も得られない。ひょっとすると、ドイツの名門グラスヒュッテとかユンハンス、あるいは戦闘機で有名なユンカースの時計かも知れぬ。

後年、私は念願の60年代製のオメガを手に入れた。デヴィル(DE VILL)と云う機種である。当然カラヤン先生を意識して黒ダイヤルで黒バンドである。
中古であるが高級品である。滅多に付ける訳には行かぬ。普段は大切に保管してある。
イメージ 2
私はこう云うシンプルな時計が大好きだ。中3針で、インデックスはバーインデックス。ローマ数字もアラビア数字も要らない。
キャリバー(ムーヴメント)は60年代の名機565である。24石で美しい非磁性メッキが施された逸品だ。
イメージ 3
これは重宝な事に手巻きも可能であるから、当然就寝前の儀式に加わって居る。
このオメガ、物凄いと実感するのは、50年前の機械であるのに、未だに狂わずに作動する事である。私が時間合わせ用に持って居るソーラードライヴの電波式時計と比しても日差-5秒程度なのである。
更に、このデヴィルは装着感が誠に良い。精度の面からはSEIKOも引けを取るものでは無いが、この腕に吸い付くように馴染む感触と重さを感じない点では勝負にならない。
イメージ 4
そして、画像を拡大して見ると微かに判るが、風防の中心に、肉眼では見えないような小さなΩマークが刻印されている。こう云う拘りがオメガらしく嬉しい。
このオメガから私のコレクションが始まったのである。

オメガを数日着けて居ると、萎えて居た気力が蘇って来た。
50年前の時計が恐るべき精度で動いているのを見るに付け、ワシもまだまだ頑張れるのではないかと思い始めて来た。

私のコレクションには掟がある。基本的に黒ダイヤル、バーインデックスの機械式で、ベルトは革ベルト。更にOMEGAかSEIKOかORIENTと決めて居る。然し、出物があった場合はこの限りではない。私の普段使いのSEIKO5はブルーダイヤルだが、オークションで数千円で入手したものだ。
イメージ 5
但しこれは復刻モノで、昔大流行したセイコー5とは似て非なる物である。
とは言っても、分厚くゴツく重たいセイコー5はそのままである。
因みにこの5の意味は、日付、曜日、自動巻き、防水、耐震、の5つの機能を意味するもので、60~70年代に一世を風靡した名品である。
復刻版は中国製であるが、安くて堅牢で普段遣いには最適である。

さて、OMEGAで元気が出て来た私は、もう一つの括りであるSEIKOも日替わりで使う事と決した。
話は遡るが、OMEGAを手に入れてから、私はSEIKOが気になって仕方が無かった。何となれば、SEIKOこそがOMEGAの牙城、更にSWISS時計の牙城を突き崩した存在に他ならないと知ったからなのである。

私はKING SEIKOと云う時計をこよなく愛する。
一概にSEIKOと言っても、SEIKOブランドの腕時計には二つのメーカーがある。掛時計や置時計を製造して居た精工舎から分離した「第二精工舎」と戦後、第二精工舎から別れた「諏訪精工舎」の二社である。
諏訪精工舎は打倒第二精工舎、更に打倒スイス時計に燃えていた。そして、60年にGRAND SEIKOを発売した。スイスの天文台規格を上回る独自の規格を設け、材質や加工も最高の代物である。
そして翌61年、第二精工舎もスイスの天文台クロノメーター優秀級を目指して伝説のKING SEIKOを発売した。
態々「伝説の」と云う修飾語を入れたのは訳がある。75年にKING SEIKOは生産を終了し姿を消して仕舞ったからである。
KING SEIKOはGRAND SEIKOと違い、国内最高級と云う位置付けではない。あくまで拘りは「世界最高精度の腕時計」であった。従って、SEIKOが67年にQuartzの腕時計を発売した事で、最早精度に拘る高級機械時計、KING SEIKOの存在価値を訴求出来なくなったのである。この潔さがKINGと云う名を冠した名機に相応しく「武士道」を感じる。
国内最高級として、Quartzを搭載して生き残ったGRAND SEIKOと比して、機械式時計の限界まで追い求めたKING SEIKOは、私のエンジニア魂を熱く揺さぶる逸品なのだ。

KING SEIKOは大まかに言って初代(1st Generation)、2nd Generation、3rd Generation、と云う3つに分類される。キャリバーを細かに分類すれば15機種、ケースの形状や仕上げの違いまで考慮に入れると相当なヴァリエーションとなるが、大まかに3世代があると言って良い。
私が所有するのは1st一種類、2nd一種類、3rd二種類の計4個である。勿論全て黒ダイヤルだ。

イメージ 6
61年発売の初代KING SEIKO。25石の手巻きである。私の所有品は61年4月製造の初期型KINGである。
イメージ 7
先ず、このキャリバーを見ただけで高級品と理解出来る。50年代の高級時計Crownと見比べて戴くと良く判ると思う。
イメージ 8
歯車の細工が違う。そして、両持ちのテンプ受け。これが頑固なKINGの特徴だ。オメガだろうが、ロレックスであろうがパテック・フィリップであろうが、テンプ受けは片持ちである。両持ちのテンプ受けはKINGならではの拘りだ。
装着感はOMEGAとは比較にならぬ程、腕に存在感がある。常に、我此処に有り、と云う存在感だ。ドッシリと大ぶりな、如何にもKINGと云う佇まいが嬉しい。
イメージ 9
裏蓋にはめ込まれたKINGの紋章が実に誇らしく、本物の証となっている。
イメージ 10
そして、この55年前の機械の精度には驚く。電波式と比しても日差5秒程度で稼働中なのである。この信頼感が何にも代え難いKINGの魅力だ。



イメージ 11
64年に発売された2ndのKING SEIKOである。私のものは67年に製造された後期型で、金張りタイプ。12時方向にアップライトのSEIKOロゴが配され、KING SEIKOネームは6時方向に移っている。
キャリバーは初代から僅かに改良されて、更に精度を追求している。2ndの後期からキャリバー名が44Aと付けられ、これが第二精工舎のロービートの最高傑作と呼ばれている。
イメージ 12
ロービートとはテンプの振動が毎秒5振動以下のものを指すが、44Aは5振動で、日差-1秒~+5秒と云う驚異的な精度を誇り、諏訪精工舎のGRAND SEIKOにも移植された名機である。
イメージ 13
装着感は半端ではない。初代より一回り大きく重い。私の細腕にギリギリ収まる存在感と暗がりでもギラリと輝く剣型の針と上質なバーインデックスが何ともそそるのである。
イメージ 14
この手巻きの名機。現在でも電波時計と比して日差+5秒であるから驚いて良い。



イメージ 15
第3世代からは自動巻きが登場する。自動巻きタイプは諏訪精工舎製で、中身はGRAND SEIKOからの移植である。68年の発売で、8振動のハイビートだ。このタイプの後期は裏蓋の無い一体型ケースで、防水性能が向上している。私のものは72年製の後期型である。
第3世代からはKING SEIKOの自動巻きを諏訪で製造したり、GRAND SEIKOの手巻きを第二精工舎で製造したりと、それまでのライバル関係からSEIKOブランドの総合力への方向に舵が切られている。
KING SEIKOのロゴはKSと略されて居るのが不満だが、アップライトになりキラリと輝く。一見GRAND SEIKOと見間違う程の仕上げの良さ、漆黒の黒ダイヤルと細工の細かいバーインデックスが高級感を醸し出している。
HI-BEAT表記の下のマークが諏訪精工舎マークである。
イメージ 16
キャリバーは5625と呼ばれるデイト表示付きである。電波時計と比しても日差は+5秒で稼働中だ。手巻き機能も付いて居るので通常は手巻きで使用している。
イメージ 17
全体としては大ぶりだが、ダイヤル面が小さいので収まりが良い。自動巻きならではの厚みと重さ、そして仕上げの美しさがKING SEIKOの高級感を引き立てている。
イメージ 18
このタイプは裏からは開けられない。素人がおいそれと裏蓋を開けて中を眺める事は不可能であるから、内部の画像は初期のスクリューバックタイプのものを拝借した。



イメージ 19
第3世代からはもう一つ。68年発売の手巻きの第二精工舎製、45KSと呼ばれる名機中の名機である。私の最もお気に入りのKINGである。私のものは70年製造である。
一見、先の諏訪製56タイプと見分けが付かないかも知れぬが、実際はこちらの方がゴツい。バーインデックスも太く、矢張り第二精工舎製はKINGの本流だと想わせる。最大の特徴はデカいリューズである。
HI-BEAT表記の下のマークが第二精工舎マークである。
イメージ 20
デカいリューズには訳がある。この機種は何と10振動のハイビート機なのだ。簡単に言うと、振り子の一往復が2振動である。これが、毎秒5往復、10振動する情景を想像してみると良い。途轍も無い動きだと云う事が判る。当然、秒針はQuartzとは真逆で全く切れ間がなく滑らかに動く。一時世間を驚かせた音叉時計のような針の動きなのである。否、本来は0.2秒毎に切れて居るのであるが、デジタル録音のようなもので、とても人間の目には感知出来無い。
この10振動を生み出すゼンマイはハイトルクだ。従ってこのゼンマイを指二本で巻くにはそれ相当なデカいリューズが必要になる道理である。
手巻きの10振動。腕の良い時計師が調整すれば日差0.25秒まで追い込めると言われる。恐るべき名機と言って良い。
そして、何よりKING SEIKOの伝説的な武勇伝として語り継がれているのが、スイスの天文台クロノメーターコンクールを廃止に追いやったのはこの45KSだと云う話である。詰まり、45KINGの精度を目の当たりにして、OMEGAの牙城が崩れるのを悟った主催者が、急遽コンクールを取りやめて仕舞ったと言うのである。
イメージ 21
このゴツさ、重さはKING SEIKOの中でも随一と言って良い。厚みは諏訪の56程ではないが、ラグが太いので全体がボリュームアップしている。
耳を寄せると猛烈な勢いで働いているのが判る。現在でも電波時計と比して、日差+1秒程度であるから、Quartz時計と何ら変わりが無い。
イメージ 22
この裏蓋はスクリューバックである。然し、メダルはKINGの紋章でないのが残念である。KINGの紋章の方が武勇伝には相応しいではないか。




休養中に、思い立ってPCに繋いでいるプリアンプをマッキンに替えた。ついでにパワーもラックスからSANSUIに替えた。これで音盤収録は更に音質アップしている。
今回の音源は、最近良く聴いて居る、バッハの無伴奏チェロ組曲。カザルスのGR盤をウォーミングアップとして収録した。

バッハ 無伴奏チェロ組曲 第3番 36年録音(MONO)Angel国内盤LP
AngelのGR盤も然るべきMONO針で再生すると見事に良き音で再生する事が出来る。
この曲の原点。カザルスの力感溢れる演奏を聴いて戴きたい。



バッハ 管弦楽組曲第3番の魅力

$
0
0
諸般の事情により、永らく更新して居りませんでしたが、ボチボチと書いて行く事に致します。
神だか悪魔だかの仕業により、体調も仕事も思わしくなく、地磁気が逆転す
るから気を付けよと忠告する御仁まで現れ、中々にタイミングが掴めない状況でもあった。

前回、音盤も時計もアナログを愛好して居ると書いた。
アナログと言っても、音盤にも時計にもレトロと云う物があって、巧妙に昔
風に作られているのだが、これは実際には新しい物だ。
デジタル録音のLPレコードと云うものや、アナログ録音のデジタルマスタ
リングと云うものもあって、本末転倒とはこの事である。
時計も、針が3本付いて居て時刻を表示するからアナログ時計かと言えば、
そんな単純な事でも無い。光発電の電波時計なんぞは、もう歴としたデジタル時計である。職人技の妙なんてものはそこには無い。
アナログの時計も音盤も、実は全く同じ原理だと云う事を知らねばならない

更にもっと突っ込めば、音楽と時との深い関係にまで遡及せねばならないの
だが、今回はそこまでは論じない。

幻の名盤、と称させるものがあって、これは単純に、非常に入手が難しいものに冠せられる呼称である。
但し、この言葉に正確な定義がある訳では無く、発した当人の主観である事
は間違いない。
時計愛好家の世界にも「幻の時計」と云うものが存在し、その代表格にタカ
ノがある。
タカノと言って、「ああ」と反応する人は稀である。最近は時計屋でさえタ
カノを知らぬ者が多い。
高野精密工業自体は古い会社で、主に柱時計や置時計を作って居たのだが、
戦後、愈々腕時計分野に進出する事になり、57年から腕時計の生産を開始する。しかし、59年の伊勢湾台風で工場が壊滅的被害を被り、その後急速に業績が悪化し、リコーに吸収された。
タカノブランドは57年から61年の間の、僅か4年11ヶ月で消滅し、残存数
の少なさから「幻の時計」と称されるようになった。
タカノの時計は、作りの良さ、デザインの先進性が魅力である。
同じ時期、セイコー、シチズン、オリエントと云った先発メーカーは、どち
らかと言うと無難で無骨なデザインであったが、タカノのデザイン性はスイスの高級時計に比しても尚、その先を行く先進性であり、60年近く経った現在に於いても立派に通用する。
又、名古屋のメーカーとしての誇りを感じさせる「シャトー・シリーズ」は
、手巻きとしては当時、世界最薄のキャリバーを開発、搭載したものであり、コレクターの人気は高い。因みにシャトーは「お城」を意識したネーミングである。

この幻のタカノが、何故か私の手元に2個存在する。
一つはドイツ製キャリバーを搭載した最初期のノーネームの物。幻中の幻。
大変貴重な代物だ。
イメージ 1
このドイツLaco社のキャリバーを手本にタカノ製キャリバーが開発されたのである。驚くべきは、この時計、今だに遅れもせずに動き続けて居る事である。
そして、文字盤やケースの凝った作り。美しい時計だ。

もう一つは当時の世界最薄。シャトーのSuperior。これはTAKANO製キャリバー搭載21石の贅沢な作りだ。
イメージ 2
そして何より、この凝った作り、洗練されたデザインには目を疑う程だ。半世紀以上経った今でも、全く古さを感じさせない。否、今でもこれ程美しい時計には滅多にお目に掛かれないであろう。

時計と同様、レコードプレーヤーと云う奴も、ちょくちょくと回してやらねば状態を維持出来ない。
近頃急にバッハが聴きたくなったので、今回は管弦楽組曲第3番である。
管弦楽組曲は序曲(シンフォニア)付きの舞曲集であるが、第3番は多少趣が変わって居る。そして、この異形な第3番は非常に私の好みなのだ。

どう異形かと言えば、第1曲のフランス風序曲と第2曲のポリフォニックなエアの2曲で全体の半分以上を占めて居るのである。詰まり、舞曲集の仮面を被っては居るが、非舞曲に比重が置かれて居る。これが異形である。
更に、第5曲ジーグでは、ラメントバスと云う半音階下降が現れ、エネルギッシュで弾けるような音楽を、影のある憂いが差し込む音楽として居るのだ。これも又、単なる舞曲では無い。
バッハは明らかに何かを伝えて居る。
これはチャイコの悲愴に相通ずる如き、ミステリアスな曲と言って良い。詰まり私好みの曲なんである。
私はこの曲に関しては新しい録音は聴いて居ない。極めて残念な事に、リヒターのアルヒーフ盤を聴いてからと云うもの、他の演奏を聴く気が起こらないのである。
様々な聴き方があると思うが、若干34歳のリヒターによるこの演奏は、それ位圧倒的名演だと思う。
81年。54歳でリヒターが亡くなった時は、計り知れぬ衝撃が走った。そして、同じ程度の衝撃がその翌年私を襲った。ペッパーが亡くなったのである。
ペッパー56歳であった。
フルトヴェングラーの追悼演奏で、カラヤンが演奏したG線上のアリアを思い出した。
管弦楽組曲第3番は悲しみを湛えた曲だったのである。



シューリヒト/フランクフルト放送響 61年録音 日コロ盤LP
私がこの演奏を聴いたのはかなり遅い。81年に日コロから発売されたこのLPを聴いたのが初である。
シューリヒトのバッハは深い。ブランデンブルクにも感服したが、この管弦楽組曲3番にはほとほと恐れ入った。この曲、ポリフォニックな構造であるから、ポリフォニックオヤジのシューリヒトが嵌らぬ道理が無い。否、この爺はバッハが身に染みて居るに相違無い。
序曲、出だしのgraveの荘重な深さ。オーボエのもの悲しさにそそられる。
vivaceも決して走らず落ち着きと深みがある。全く響かないトランペット、ソロヴァイオリンの情緒、威風堂々の終結。見事である。
エアも悲しく深い。この切々としたヴィオラで感動しない者は不幸である。
ガヴォットのポリフォニー感は見事である。些か通俗的なこの曲を、1曲の音楽として聴かせて仕舞うのがシューリヒトの凄さである。
ブーレは落ち着いたテンポながらリズムが躍動して居る。
ジーグの出だしのトランペットは一体何事であろう。丸で響かず豆腐屋のラッパの如しである。しかし、この懐かしさは比類無い。ドイツの田舎の踊りとはこんなもんだぞ、と諭されて居るようなのだ。ラメントバスで音楽が沈潜して行く中、エコー的な扱いのセカンドヴァイオリンを特と味わって欲しい。これぞシューリヒトの味わいなのだ。胸を掻きむしる如き切ない演奏だ。



ハルノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 66年録音 TELEFUNKEN盤LP
この音盤の発売当時は、まだハルノンクールと云う表記であった。78年の水上の音楽辺りからアーノンクールと云う表記になったと記憶して居る。
処で私はこの得体の知れぬハルノンクールと云う指揮者の管弦楽組曲3番がお気に入りであった。鉄板のリヒター盤が存在して居る時代である。私はテレフンケンの音盤を持って諸先輩に聴かせて回った記憶がある。
この演奏、ハルノンクール指揮となっては居るが、実際は指揮者は居ない。彼はチェロパートで演奏して居る。この演奏の中心は実はアリスのヴァイオリンなんである。私はこのアリスの澄んだヴァイオリンの音色に打ちのめされたのである。ジャケットを見れば判るだろうが、中心はアリスであって、夫ハルノンクールは左端である。アリスが主役の演奏であるから、この演奏はアクが無く、瑞々しく清々しい魅力を放って居る。
序曲graveは当時は目からウロコのピリオッド奏法で新鮮な感じがしたが、今聴き返すと良く纏まった控え目な表現だ。vivaceに入ると軽快な感じで聴き易い。アリスの滑らかなヴァイオリンが一服の清涼剤の効果だ。
当然次のエアが最大の聴き処である。淡々と進む滑らかな音楽は悲しみと云うよりは寂しさの表象である。この音楽の中に溶けて仕舞いたいと願う程美しい。
ガヴォットは繋ぎとしてアッサリと纏めた感じだ。アーノンらしい角が無い。あくまで舞曲としての忠実な表現に終始して居る。
ブーレは若干活気が出て来るが、ここも繋ぎと云う感じで押えて居る。
ジーグはシューリヒトのような名人芸腹芸は無い。後半に若干悲しみの影が差すのだが、深くは落とし込まない。ただ、単なる喧騒の音楽としないのは優れたバランス感覚だと思う。



ガーディナー/イングリッシュ・バロック・ソロイスツ 84年録音 ERATO盤CD
これは今回唯一のCD盤だが、私はこの演奏は結構好きである。ガーディナーはノリが良いのだ。
序曲のgraveは意外にも浅い。ガーディナーの明朗さ軽さが少しばかり仇になった感がある。これがvivaceに入ると途端に目が覚める。ノリの良いガーディナーの本領発揮である。私は最初これを聴いた時、チャーリー・パーカーを想起せずには居られ無かった。ビ・バップのノリなのだ。これは良い。身体が自然に動き出すスウィング感。
中間部と最後のgraveはノリの延長で最初の部分よりは出来が良いのが面白い。
続くエアは問題有りかも知れぬ。このレガート感の無さは戴け無いぞよ。ちょいと魂が音楽に溶け込まない。鎮魂度不足じゃ。
ガヴォットとなると、これはガーディナーの世界だ。非常にバランスの取れた好演。特に第2ガヴォットの寂寥感が上手い。
ブーレはリズミカルで軽く纏め、間髪を入れずジーグになだれ込む。
このジーグは良い。実に計算の行き届いた見事な構成だ。下降音階に伴う黄昏の如き寂しさも、快速テンポの中に埋め込まれて居る。



リヒター/ミュンヘン・バッハ管 60年録音 ARCHIV盤LP
こう云うのを圧倒的演奏と呼ぶのであろう。この恐ろしく深い演奏が34歳の若者によって為されたと云うのは俄かに信じられない。彼の天命が54歳とすれば、恐らくこの境地は最も脂の乗り切った時期であったのかも知れぬ。
実は私はこの演奏は非常に早い時期から聴いて居た。それはDG盤のLPであったが、それを聴いて居た時には実に端整で良く纏まった演奏だわい、と云う程度の認識であった。勿論、大好きなDG盤であるから愛聴盤だったのだが、後年、独プレスのアルヒーフ盤を聴くようになって、この途轍も無く巨大な演奏に圧倒されたのである。DG盤とは丸で音のバランスが違う。アルヒーフが本物とすればDG盤はフェイクだ。それ程に差が歴然として居る。
序曲のgraveは恐るべき音楽だ。私には最早圧倒的と云う言葉しか思い当たら無いのであるが、巨大な音楽が屹立する。リヒターはオルガンも弾く。否、レコードデビューは寧ろオルガン演奏の方が先であった。このオルガン的音響はリヒターが意図して居たに相違無いのである。
vivaceに入ろうと軽さは無い。寧ろ力感が増して来る。軽やかなるべきヴァイオリンの旋律は、来るべき深淵の予兆に過ぎ無い。
穏やかなエアは胸が締め付けられる程の静けさと鎮魂性に満ちた音楽だ。ヴィオラの旋律が深く胸に染み入って来るのである。
ガヴォットも単なる舞曲の範疇には収まっては居ない。実に堂々たる音楽で組曲全体を引き締めて居る。
他では軽さを感じさせるブーレもリヒターの手に掛かると思わず聴き入って仕舞う力がある。
最後のジーグの引力も並々ならぬものがある。この引き込まれる感じは…
そう、バーンスタインのショスタコ5番の1楽章の如き感触だ。音楽の中心に向かって引き込まれて行く。何時迄も終わらないで欲しいと思う音楽。

カラヤンの悲愴の聴き方(オーディオ雑談)

$
0
0
此の処オーディオに関する話題から遠ざかって居る。昨今はオーディオ自体も人々から離れている。
要するに、ショルティもバーンスタインもオーマンディもカラヤンも居ないのであるから、音盤も売れない。何時の間にやら主要レーベルも姿を隠し、名も無き演奏家の演奏がネットで流れる。
まともな音盤が出て来ないのであるから、まともなオーディオも登場しない。
或る一定以上の年齢の音楽愛好家は、古の名演の希少盤を探しては悦に入って居る、のが関の山である。
JAZZはもっと悲惨で、巨匠ゲルダーが亡くなった瞬間に、過去の遺物と化して仕舞った。JAZZ愛好家は、60年前に一瞬花開いた文明の遺跡を発掘する考古学者。世界遺産を旅する観光客の気分である。
良き音源が出て来ぬからには、良きオーディオも出て来ぬ道理である。


米国のShuさんからカラヤンの71年録音、チャイコ6番の英EMIオリジナル盤を送って戴いた。
イメージ 1
何時も私はDGの76年盤が良いと喧伝して居るのだが、gustav師匠は71年盤が良いと譲らぬ。そんな議論を読み、疑問を抱いたのはShuさんである。自ら音盤を取り寄せ、御自身の感性で結論を下された。
ここはgustav師匠の勝ちだと云う結論である。
私が米Angel盤を聴いて居ると云うので、耳をかっぽじって良く聴きなされ、と態々英EMI盤を御送り下さった訳である。

耳をかっぽじって良く聴いてみた。
EMI盤は独Electrolaで録音。トーンマイスターはギューリッヒだ。当然DGのヘルマンスとは違った理念、手法で収録されて居る。
ここを踏まえなければならぬ。
それと英EMI独特の、過剰な迄の低音のデフォルメも考慮に入れなければギューリッヒの理念を聴き取れない。
私の聴き方は、音盤鑑賞とは出来上がった音盤自体が作品として聴かねばならぬ、と云う信念に基いて居る。であるから、ギューリッヒの伝えたかったカラヤンの悲愴と、ヘルマンスの伝えたかったカラヤンの悲愴とが、決して同じ土俵上の相撲であるとは考えて居らぬ。

ギューリッヒは、無指向性マイクを遠くから使って音を拾い、360度全方向からの音を録った。意識したのは、『丸い』音の空間である。であるから、実際にカラヤンの演奏を生で聴いたgustav師匠が、「生のBPOはこんな音だ」と仰るのは全く正しき捉え方なんである。
ヘルマンスはと言えば、マルチマイクで各パートの音を丹念に拾い、個々の奏者の技量までも克明に堪能する事が出来、それがホールの壁に美しく反響して行く「美音」を以てカラヤンの凄腕を訴えたのである。
その結果、76年盤では、各楽器を自在に操り、曲の持つ真相迄を抉り出した比類無きPathetiqueを表現した。


英盤を御送り戴いたShuさんには、ターンテーブルシートにはラッカー原盤を使いなされ、と余計なアドバイスをした。
拙記事を御読みの方で、まだ御試しで無い方が居られたら、一度是非試して戴きたい。実に顕著に効果が認められる事でしょう。
折角、英盤を御送り戴いたので、この盤を用いてシートの差異を聴いて戴こうと云うのが本記事のネタである。

私自身は特注のガラス製シートを使って居る。プラッターに合わせた円形ガラスの片面にラッカーコーティングしたものだ。
イメージ 2
これはEMTの927を聴き、ガラスターンテーブルの効用に気付き、咄嗟に閃いて、クラシック音楽ファンのガラス業者に趣旨を説明し、作って貰ったものだ。

そして、これがLPのラッカー原盤である。
イメージ 3

写真では両者の差は定かでは無いが、ラッカー盤の作りは見事なものである。一見ラッカーコーティングされて居るとは思えぬ程の平滑性だ。これにLPの原型をカッティングするのであるから当然の事であるが、非常に厳密な作りだ。
そして、中身はアルミ製なので、スタビライザーを使用する事で僅かなしなりを生ずる。この僅かなしなりで音盤と、よりフィットする。これがミソである。


検証、収録に使用したのは
GRACEのF-14 BROADCAST Excellent US-14 RubyⅡ
シェルはGRACEの放送局用でマグネシウムビスで装着
リード線は写真とは違ってGRACEの純銀単線使用
イメージ 4

プレーヤーはPIONEER PL-50  ボディには砂状トルマリンを充填した重量級の砂上の楼閣システム
イメージ 5

尚、カラヤン関連の動画は、順調に削除されて仕舞うようなので、御早目の鑑賞を御奨め申し上げます。


最初はハネナイトゴムのシートでの再生
これについてどうこう述べる訳では無い。ハネナイトを使用した時にはこのような音質である事を確認して戴きたいのである。本説はシートの違いが再生音質に如何なる変化をもたらすかと云う事である。
EMI盤自体は、某東芝盤とは異なり、確りと輪郭を描きながらも豊かに広がる音場感が確認出来、全く違和感は無い。要するにギューリッヒの音作りが理解出来無い者が下手な音盤を作ると、某東芝の如き有様になると云う事なのである。



次は件のラッカー原盤での再生
前者と比すと明るく視界が開け、高低に音が伸びて行く。音楽に張りが出来、弾むような躍動感が再現される。図太いだけの低域では無く、良く伸びてホールを包み込むのでストレスが無い。
前者とは全く同じ条件で、シートをラッカー原盤に替えただけでここまで表情が変わって仕舞うのである。
聴き手が積極的に再生に関わって行く事が出来るからオーディオが面白いのである。LPの再生は腕の見せ所なのである。



次は私のグラスシートでの再生
ラッカー原盤と比べ、どちらが正しき再生音であるか、と云う問題ではない。言えるのは確かに音は変化すると云う事。何かをやれば何かが変わるのがオーディオの妙味である。
元気一杯、生き生きとした躍動感を感じさせるラッカー原盤と比すと、此方はシットリ感が増す。明らかに高低に、より音域が広がり自然な響きとなって居る。ピッツィカートの強調感も取れ、クラリネットの広がりもスムースである。その分ダイナミックが減じて居る様にも感ずるが、音の行き場が広がって居るのでそのように聴こえるのである。空気を圧縮したような低周波が感じられたなら、そのシステムは相当良く出来て居ると言って良い。
常日頃、多少緩い再生音であるシステムにはラッカー原盤を使用する事で、より生き生きとした演奏に接する事が出来るであろう。



最後はラッカー原盤に戻り、米Angel盤の再生を参考までに
細やかで鮮やかで迫力満点で、加えて豊かな響きである。
CAPITOLは良い仕事をして居るのである。ギューリッヒの仕事が良く判って居るから斯くなるのである。
これであるから音盤再生も音盤探しも止められないのである。

ベートーヴェン交響曲第5番と云う難関

$
0
0
十日間程完全に寝込んで仕舞った。ワシも此処迄かと思う程、どうにも起き上がる事も出来なかった。やっとPCに向えるようになったので、今の内に書くべき事は書いて置きたい。

前記事でShuさんが中々に鋭いコメントを入れてくれた。
音盤の再生によって、演奏の評価も違って来るのではないか、と云う誠に的
を得た意見だ。
評論家なる者が、これは名演だ、とか、これは駄演だと言うのは勝手だが、
奴等は如何なる再生音を聴いて判断して居るのか、或いは、如何なる音源を聴いて居るのか。此処に関しては一切触れられて居ない。
要するに同じ音盤を聴いて居ても、皆違う音を聴いて居るのである。
装置によって、或いは部屋によっても聴いて居る音は違う。況や再生手腕に
よって、折角の高価な装置も充全な効果を発揮出来無い事を理解すべきなんである。
更に厄介な事に、レコードでもCDでも、盤による差が歴然と現れて仕舞う
のである。
これに関しては、前記事でカラヤンの悲愴の英EMIオリジ盤を取り上げ、サラ
ッと解説した。
で、今回はベーム/VPOのDG盤、ベートーヴェンをちゃんと堪能しまし
ょう、と云うお話である。

gustav師匠の最近の記事で、ベーム/VPOのDG盤ベートーヴェンはシックリ来ない、と述べられて居る。
処が私は随分以前から、ベーム/VPOのヘルマンス録音は人類の宝、と明
言して止まない。これは如何なる事であろう。
恐らくは、音盤による差があるに相違ない、と睨んだ。
gustav先生、多分CDしか聴いた事が無いのではなかろうか、と察した訳で
ある。斯く言う私にしても、ベームのCDは絶対に聴かない。私だって色々試して居るのである。
その昔、アートンと云うCDの素材が出て大層評判になった。私も早速ベー
ム/VPOの名盤、ベートーヴェンのパストラルのアートン盤を購入した。
これが全くのクソなのである。これでは何が名演なのか解ったものではない
。矢張り真価が理解出来るのはLP、しかも初期盤なのである。
記事を構想に入れ乍ら、ベームの第5のオリジ盤を取り寄せた。人気が無い
所為か安いのである。
DGの国内盤LPも、初盤は概ね良い音がする。音に艶が有るのである。C
Dと云う奴は概ね音の艶が減じる。これはフォーマットの所為で仕方が無い。私も国内盤の初盤を持って居るが、オリジ盤との差を確認したくなったのである。
そもそもヘルマンスの仕事と云うものの特徴は、音の艶なんである。克明に
個々の楽器の音を拾って居るが、それが余韻を持って、空間に放出される。
これが独特の艶であり、私を魅了して止まないヘルマンス・マジックなのだ。
此れを踏まえて、御読み、御聴き戴きたい。

今回は体調の事もあり、自分の原点に戻ってみようと思った事もある。
私の音楽鑑賞の原点は、トスカニーニの第5であったと思う。理由は単純で
、当時巨匠と呼ばれて居たトスカニーニ、ワルター、フルトヴェングラーの中で、一番の年長者がトスカニーニで、何しろ一番偉そうであったからだ。
しかし、私はこの大層立派な「運命」には然程感銘は受けなかった。
ああ、これが「運命」かと腑に落ちて聴き捲ったのはフルヴェン先生の47
年盤、かの有名なEMIのスタジオ録音である。
今にして思えば、第5はこの一枚があれば充分であろう。それこそ耳タコに
なるまで刷り込んだ第5であるが、これ以上立派な威容を備えた第5は他には皆無である。此れを以て私の原点としよう。
曲が曲だけに、挙げれば幾らでも出て来てしまう。今回は、これぞ第5、と
云うべき代表的な7種を挙げる。この7種を繰り返し聴くだけで、第5は充分堪能出来るものと思う。
幾らでも増えてしまうので、基本中の基本であるフルヴェン盤以外はステレ
オ録音とした。私の最も好むクライバー親父/コンセルトヘボウ盤も、体力の関係でカットした。
そしてデジタル時代は一切カットである。第5は50~70年代が頂点で、
後は衰退の一途を辿っているような気がするのだ。
超有名曲で、名盤揃いである。瞬く間に削除される事が予想されるので、一
瞬を逃さず御聴き戴きたい。




フルトヴェングラー/ウィーン・フィル 54年録音 EMI盤CD
これは一等最初のCDであった。処がこのCDは驚天動地の高音質なのである。オリジナルマスターからのCD起こしらしいが、悔しいがこればかりはどんなレコードよりも良い音がする。兎に角、出だしの4音を聴いた瞬間おっ魂消た。毛唐はこんな素晴らしき音を聴いて居たんだと、改めて敗戦の意味を噛み締めた。
初心者の方は虚心坦懐に、ベテランの方も襟を正して今一度この「原点」に聴き入って欲しい。これがベートーヴェンの第5である。
フルヴェン先生の第5の音盤は十数種もあるらしいが、私はこれが完成度に於いて随一だと思う。如何なる反対派もこの演奏の前には頭を垂れそうな威厳である。





コンヴィチュニー/ゲヴァントハウス管 60年録音 PHILIPS盤LP
この音盤、全集の中の一枚で、片面に無理やり切り込んである所為か音の伸びに欠ける。同じ60年録音でも3番、6番は両面カッティングなので良い音がする。極めて残念だ。
色々調べてはみたが、録音エンジニアは定かではない。Dieter-Gerhardt Wormと云う説もあるが、この人がプロデューサーとして絡んで居るのは確かだが、実際のETERNAのエンジニアの名前は定かではない。マズア以降は確実にシュトリューベンだと云うのは判っているのだが…兎に角MONO末期、ステレオ初期の東独の録音は怪しいものが多い。
コンヴィチュニー楽長の第5はゴツゴツ感が堪らない魅力だ。スコア上このモチーフはこうなってこうなる、と云うのが手に取るように聴こえて来る。
そして矢張りこのオケは上手い。個々の技量と云うよりオケとして上手い。
ベートーヴェンの第5と云うのは、こうしてやりなさい、と云う鑑の如き演奏である。




イッセルシュテット/ウィーン・フィル 68年録音 LONDON盤LP
DECCAとしての初のVPOでのステレオのベートーヴェン交響曲全集である。
この音盤も数枚所有しているが、今回の収録は全集盤からである。何度も言って居るが全集盤はZALスタンパー入で音が良い。全集盤で音が悪いのは9番である。この5番は概ね問題は無い。
これも耳タコの演奏で巷間の評判も頗る良い。しかし、何か今一つなんである。
これでどうだ、と云う感じは良く伝わって来る。文句の付けようもない、隙の無さである。しかし、フルヴェン先生のような高揚感も、コンヴィチュニー楽長のような郷愁感も薄い。
将に第5に於ける完璧な優等生なのである。しかしVPO一番の武器であり、特徴である色気が足りない。
全集の中ではこの5番と8番のエンジニアはケネス・ウィルキンソンである。
どうもこの人、名前とは真逆でカミソリの如き切れ味が無い。パリーのような高揚感とか、ロックのような色気が足りない。一連のショルティはウィルキンソンの録音で、ドライな感じがショルティとマッチしていたが、イッセル親父はNDRの創設者で、根っからブラームス向きの渋好みである。色気の無い事この上無い。しかし、第5と云うキチキチの曲だから、これはこれで貫徹された名演と言えるのである。




C・クライバー/ウィーン・フィル 74年録音 DG盤LP
最初は戸惑って居たショルティ/シカゴの第5に漸く慣れて聴ける様になった頃、突然C・クライバーの第5が登場し世間の話題をカッ拐って行った。
当初、評判が良いと云う感じでは無かったと思う。当惑したのである。
カラヤンやショルティは、何処かトスカニーニを引き摺って居たのだが、C・クライバーの第5は、親父クライバーでもフルヴェン先生でも無く、C・クライバー独特の新たな視点での表現なのだ。
中々に強い表現である。この強さは力任せではない。充分に撓り弾ける鞭の如き強さだ。MAXの迫力は親父には及ばないものの、全曲を通じて弾ける鞭の鋭さは、聴き慣れて来ると一種の快感に変わる。
録音エンジニアはシュヴァイクマンで、私はこの人の音作りは好きになれない。徹頭徹尾人工的なのである。
レコードによる音楽であるから、この手の技法も有りだとは思うが、私はヘルマンス好きであるから違和感が拭えない。
しかし、C・クライバーの第5は録音にしても演奏にしても、人工美として大成功であった。このようなインパクトの有る第5は滅多に有るものでは無い。殊に3楽章の躍動感たるや、カラヤンでさえ一歩譲る素晴らしさだ。これこそ鞭のように撓り弾けるC・クライバーの特徴が生きた名演だ。




カラヤン/ベルリン・フィル 76~7年録音 DG盤LP
70年代のDGとしては、ベームもクーベリックもC・クライバーも存在して居る中での録音である。あのカラヤンとヘルマンスであるから、当然これらを意識し、凌駕するものを狙ったと考えて良いであろう。
C・クライバーを聴いた後にこの演奏を聴くと、何かホッとする。基本的には似たようなテンポであるが、カラヤンの間の取り方は伝統に則した無理の無いもので、内心「これだよなぁ」と嬉ぶ。そして兎に角、BPOの音の迫力たるや、並み居る爆音系演奏を尽く吹き飛ばす。音がデカイだけではない。舌を巻く程上手いから天下無双なのである。
録音は態と3ヶ月間を空けて客観的に見つめ乍ら行って居る。勢いや伝統のみでは無く、現状での最高峰、否、未来に亘って迄も天下無双と言われ続ける演奏を目指したに相違ないのである。
この2楽章は絶品である。美しいものはより美しく、と云うカラヤンの美意識が、生では絶対有り得んだろ、と云う極微細な美音で綴られて行く。ついつい最後迄聴き通して仕舞う音響美である。流石のベートーヴェンもここまでは想像出来無かったであろう。
gustav師は、この演奏は疲れると仰るが、第5は疲れる音楽であるから「正解」なのである。




ベーム/ウィーン・フィル 70年録音 DG盤LP
本題のベーム盤である。
私はDGヘルマンス録音のベーム/VPOの音盤を好んで聴いて居る。そこにはVPOの絶頂期の世にも美しき音楽を味わう事が出来るからである。
この音盤が出た当時の興奮は今でも鮮明に記憶に残って居る。しかも、一枚¥2000のレコードには、A,B両面に第5が一曲。途轍も無い贅沢品、高級品であった。当時、待ちに待った決定盤を手にした時の喜びは忘れられるものでは無い。
ベームは朴念仁の如く思われて居る節があるが、前掲のコンヴィチュニー楽長やイッセル親父の演奏と比すると、此方の方が余程感情や表情の起伏が豊かで聴いて居て飽きない。剛毅な中にひっそりと感じられる弦の揺らし方なんぞは絶品の域と言える。終楽章に向けて徐々にアクセルを踏んで行くやり方は中々に聴かせ上手だ。
この収録盤はDGのオリジナル盤で、年代相応のノイズは勘弁戴きたいが、素晴らしく瑞々しいVPOの色気タップリの音色は、人類の宝と言って差し支えあるまい。
反面、VPOの麗しき音色に食指の動かない御仁には、ちーとも理解出来ぬ類の正統派演奏と言え無くも無い。
ベームとは音盤で損をして居る人だと思う。
例えばシューベルトの「ザ・グレイト」79年のドレスデンライヴと云う音盤がある。オケは言う迄も無くSKD。81年に追悼盤と称してDGから発売されたものだ。ベームはスタジオ録音では凡庸、ライヴこそ燃えるタイプだと云う説があり、喜び勇んで購入したが、さっぱり良く無い。
実はこの演奏録音、Deutsche-Schallplattenの録音で、79年にETERNAからリリースされて居る。詰まりオリジナルはETERNA盤なのである。こちらを聴かなければ真価は理解出来無いであろう。DGとすれば、かなり遣っ付け仕事の感が否め無い。
この曲、63年のDG盤ヘルマンス録音の方は名盤の誉高く、古くから評価の高い演奏である。詰まり、ちゃんとした方針の下、ベームの音楽を理解した然るべき録音であれば、一発勝負のライヴよりは質の高い演奏を味わえると云う事なのである。
ベームと雖も百発百中、名演奏と云う訳にはならない。これはフルヴェンだろうがカラヤンだろうが同じ事で、ベームばかり非難される謂れは無い。
この第5とパストラルの二枚を以てして、歴史に残る大指揮者と言っても良いのである。




クリュイタンス/ベルリン・フィル 58年録音 EMI盤LP
当ブログとしてはこの盤が本命、一押し盤である。
私が始めてこの演奏を聴いたのは東芝音工時代のセラフィム盤で、これは中々に音が良い。演奏も聴き慣れたBPOの安心感抜群のバランスで、何度聴き返しても全く飽きが来ない。
後に英国盤を聴きたくてEMIのHMV CONCERT CLASSICS SERIES盤(青ニッパー)を入手したが、これは全く気の抜けた音で、魅力は半減であった。
調べると、録音エンジニアはホルスト・リントナーと云う人らしいが、音盤による音の差はエンジニアの責任では無い。本家EMIにしてこの有様であるから、況や東芝EMIなんぞは論の外である。年代の下った盤には全く期待出来無い。
この収録盤はEMIのASD.267 所謂「白金」盤(しろきんばん)である。
参考迄に、下にセラフィム盤と青ニッパー盤の1楽章を貼って置くので、聴き比べて戴きたい。
Shuさんが御気付きの如く、盤によって音楽の印象、演奏の好悪の判断が変わって仕舞うのである。




クリュイタンス/ベルリン・フィル 英EMI盤(青ニッパー) 第1楽章
これは音が薄い。東芝よりは遥かに音場は広く音が抜けて居るのだが、音楽自体も遠くなって仕舞い、芯の強いBPOの魅力が減じて居る。ホルンもフレンチのように軽く感じる。




クリュイタンス/ベルリン・フィル 東芝音工セラフィム盤 第1楽章
私が最初に聴いたのは、この音盤である。
何時もの東芝の音調で、抜けが今一つで、音の角が丸くソフトだが比較的上手く纏まった音である。図太いBPOが感じられるのは嬉しい。

ブラームス 交響曲第1番 

$
0
0
4月1日のyositakaさんの記事を拝見し、ムラムラと種火が燻って来た。神のお告げである。
https://blogs.yahoo.co.jp/izumibun/40482907.html

ブラームスとなればワシも一言弄せねばなるまい。
記事中、ワインガルトナーの2音源が紹介されて居た。であらば、最後の37年盤も聴かねば、何とも落ち着かぬではないか。
折角なので、久々にお気に入りのブラ1を収録し直して居た処、事件が勃発した。yositakaさんに種火を着けられたと思って居たら、どうも自然発火的に他方からも放火されたようである。
ブラ1を収録し始めた折も折、前触れも無く米国から大量のLPが届いた。
Shuさんからである。
ネタはベートーヴェンの5番、コンヴィチュニー/ゲヴァントハウス管のETERNA盤3種。チャイコ6番、カラヤンの71年盤6種。
これらの驚くべき内容に関しては、近々記事に上げて行く事にするが、今はブラ1。


ワインガルトナーの37年盤を取り上げるついでに、私の愛聴盤も5枚程上げる事とした。
私はブラームスの4つの交響曲の中では1番は余り好みとは言えない。
ビューローの言った如くベートーヴェンの第10とも思えぬし、形式的に「新古典主義」とも思えぬ。本来は、暗黒から光明へ、と云う単純な一言では片付けられない意義深い内容である。暗黒とはキリスト教であり、光明とはアフラ・マズダである。それが為にブラームスは1番の作曲に時間を要した。
同じプロットでもシューマンの第2では分かり難い。要するに音楽は分かり易く、思想的内容は分かり難くしたのがブラームスの1番である。更に、もっと大掛かりな仕掛けの中の序曲的位置付けでもある。
このような緻密で入り組んだ仕掛けが、私を遠ざける一因となって居る。
ブラームスの交響曲の仕掛けに関しては、過去記事に書いたのでここでは詳しく触れない。https://blogs.yahoo.co.jp/quontz/54868528.html
1番はベートーヴェン風に言えば「英雄(プロメテウス)の登場」と云う事になり。プロメテウスは堕天使(ルシフェル)であるから、あくまで表面上からは隠さねばならぬ対象なのである。
最近のyoutubeは、肝心の音声のみを消すと云う新手の技を使うようになって居るので、今回も早めの御視聴を御薦めする。尚、カラヤンとベームは最初からスマホでは再生出来無いようである。



ワインガルトナー/ロンドン響 37年録音 Artisco盤LP
ワインガルトナーは当初、ブラームスの音楽は人工的、科学的であるとして、距離を置いて居たようである。しかし、1896年にウィーンでのベルリン・フィル演奏会で、ブラームスの交響曲第2番を演奏するに当たり、ブラームスの許を訪れて以降、ブラームスの音楽への理解度が飛躍的に深まって行ったのである。
この時、二人の間にどのような内容の会話がなされたかは知る由も無いが、ワインガルトナーが著作内で記して居るような社交辞令的なものだけではあるまい。ブラームスも、この時のワインガルトナーの第2の演奏を褒めて居たと云うから、相当に深い話がされて居たであろう事は想像に難く無い。
詰まり、ワインガルトナーのブラームス解釈は、ブラームス直伝と言って差支えはあるまい。
36年に英国に亡命したワインガルトナーの貴重な演奏記録である。
ここに収録したArtisco盤LPは、残念乍ら原初のキレや抜けが無く、若干もどかしくはあるが、スケール感やハーモニックは確認する事が出来る。
下記で触れるベーム/ベルリン・フィルの演奏も、このワインガルトナー盤の延長にあると言える。




クリップス/ウィーン・フィル 56年録音 Decca盤LP
私は事有る毎にクリップスの演奏を声高に紹介して居る。クリップスがナメられて居るのか、感性の低い者が多いのか、はたまた意図的に無視されて居るのかは定かではないが、このブラ1もでりゃー名演だと言わずには居れない。
クリップスの師匠と言えばワインガルトナー。ここで、ちゃんと繋がるように出来て居るのだわ。殊にこの世にも美しき第2楽章に反応せぬようでは音楽ファンを名乗ってはいかん。
クリップスの演奏は野太く恰幅が良い。更にオケがVPOであるから、何処を切ってもVPO、と云う有難い響きに満ちて居る。
棚の片隅につくねて置くにゃ余りにも勿体無き名盤なのである。





カラヤン/ウィーン・フィル 59年録音 LONDON盤LP
私はカラヤンのブラームスを早くから評価して居たが、中でもカルショウと組んだブラ1、ブラ3、悲劇的序曲は何れもが絶品である。評論家の言なんぞに騙されてはいかん。若い衆はこの3曲を繰り返し聴きなされ。この味わいを理解せずに死ぬ事は無い。ここでは詳しくは触れないが、悲劇的序曲はこのカラヤン盤以外は聴けない、と思わせる程の絶品である。
本題の第1であるが、聴き処は終楽章、ホルンソロ以降の切々と心温まり涙を誘う郷愁は滅多に聴ける代物では無い。
終結部はどれ程に畳み掛けるのかと身構えて居ると、何とも堂々と微動だにせぬ指揮振りに、逆に「やられたわい」と呟く事であろう。




ベーム/ベルリン・フィル 63年録音 DG盤LP
これぞ鉄板と言われ続けて居る名盤である。大したもんである。
名匠ヘルマンス録音であるから言う事は無いのであるが、この大したもんである感は、良く聴くとBPOの音響に由来する事、大なのである。
全方位に亘って誠に申し分無き出来栄えなんであるが、先にカラヤン盤を聴いて仕舞うと、これはどうにもクールな演奏である。
ブラームスはクールでも一向に構わんが、ウエット感は欲しい。ベームのブラ1はドライなクールで、これが聴き飽きしない大きな理由でもあるが、この曲はブラームスの中では多少賑々しい序曲的な音楽である。もう少し煽って欲しいと思うのは我一人であろうか…



ケンペ/ミュンヘン・フィル 75年録音 BASF盤LP
ケンペのブラームスも侮られて居る名演の一つと言える。私は最初にこれを耳にした時、愕然とした。今まで何を聴いて来たのかと思った。これ程迄に一節一節に丁寧に愛情の籠った演奏を聴いた事が無かった。簡単に「上手い」の一言では済まされぬ、実に心の籠った演奏だ。単調な部分など一つも無いのである。ウィーン風の暖かいブラームスも好きではあるが、矢張りこれ位涼しく哀愁を訴える方が正調ブラームスと云う感じがする。
ケンペはブラームスが見えて居た。同じようにブルックナーも見えて居た。と、云う事はその更に先にあるロマン派の本質も見えて居たに相違無い。師のカイルベルトから受け継がれたものがここには確かに有る。
終楽章終結部の煽り。ケンペは時折誰もが追い付けぬ程のアチェレランドをかけて煽り捲る事が有るのだが、その一端が垣間見える瞬間である。しかしその直後には確りとテンポは戻る。絶妙なバランス感覚である。
ケンペは、光り輝くカラヤンに隠された月のような存在であるが、私はこの月も好む。




ベイヌム/コンセルトヘボウ管 51年録音 LONDON盤LP
ブラ1と言うと必ず登場させるので、良い加減辟易とされて居る御仁も居られようが、この盤は幾ら聴いても飽きないのである。今回は最初期の国内盤、LONDON盤からの収録である。国内盤と雖もこの盤は侮れない。DECCAオリジナルと同等の音質であると言って良い。厄介なのはイコライジング特性がffrrと云う事である。この盤はどうであろうと悩む必要は全く無い。堂々とffrrで再生しなさい、と明記してあるのだ。
50年代のコンセルトヘボウ管は全く隙が無い。この完璧な合奏力、ソロ楽器の美しさに加えて、ベイヌムの鬼気迫る熱血振りと豊かな歌いっぷりが凄まじい。態とずらす弦の裏技はメンゲルベルク譲りだ。終楽章では余りの爆発振りに名匠ウィルキンソンも追従出来ない場面さえ出来する。
終結部はケンペも真っ青なアチェレランドで、そのまま最後迄突き切って仕舞うのである。聴手をも巻き込んで仕舞う猛烈な嵐である。
かかる名演を風化させてはならないと思う。







コンヴィチュニーのベートーヴェン第5

$
0
0
ベートーヴェンの第5とチャイコの6番が舞い込んで来た件りは前記事に書いた。
今回はベートーヴェンの第5交響曲、コンヴィチュニー指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管の60年録音の話である。


私は古いタイプの人間なので、コンヴィチュニーのベートーヴェンが好きである。
60~70年代、猫も杓子もウィーン・フィルかベルリン・フィル、と云う状況の中で、一際存在感を放って居たのがコンヴィチュニーと云う恐ろしい容貌の指揮者であった。処が、これは凄い音楽家だわい、と感服しながら聴いて居る頃には、この恐ろし気な楽長は既に物故して居た。
トスカ爺やフルヴェン先生を振り出しに、クレ爺やクリュイタンスのべトーヴェンを只管聴いて居た時期、遂にSイッセルシュテットの全集が出た。
当時イッセル親父は、私にとっては未だ未知の存在で、これ又随分と怖そうなゲルマン顔の指揮者は、顔だけで充分良い演奏だろうと思わせるオーラを纏っていた。頭がクラクラする程、この全集が欲しかったが、如何せん、ガキの手に届く代物では無かった。
一年越しで金を貯め、これを買うぞ、と決めたのがコンヴィチュニーの全集である。

イメージ 1

この広告の村田氏の「これがベートーヴェンの交響曲の本来の姿である」と云う一言に絆された訳である。
この中の第5、評判は高いが如何せん音が悪い。後年、PHILIPS盤を買ったがそれでも第5ばかりは音が悪い。
そうなると、どうにかしてこの音盤からマトモな音を引き出したい、と手を変え品を変えて音盤再生に取り組む事となった。

当ブログでも散々言って来た事であるが、何十万の針を使おうと、良い音盤一枚には叶わない。何百万のプレーヤーを買う位なら数万のオリジ盤を百枚買う方が良い。素材の良さには何物も敵しない。
これぞと決めた演奏があるなら、とことん良き音盤に拘るべきだ、と言ったら、反応したのがShuさんであった。
コンヴィチュニー盤がそんなに音が気に食わぬのなら、これを聴きなさい、と態々送って戴いた。

コンヴィチュニーの音盤に関しては、ネット上でも色々な説(情報)が飛び交って居て、64年以前の録音は全てモノラル録音である、と云う極論も有る事は承知して居る。STEREO表記の物は全て擬似ステ盤である、と言うのだ。
が、しかし、私の耳はどうしてもこの論説を受け入れない。モノラル、初期ステレオ、擬似ステレオと、聴き続けて来た耳には、どうしても受け入れ難いのである。
ドイチェ・シャルプラッテンにステレオ機材が導入されたのが64年である、と云う情報が、徳間の某氏から流れた事に起因して居るのであるが、それが事実であるかどうかと云う机上の論説を捻り回すよりも、実際の音盤を聴く事の方がハッキリと確認出来る筈である。しかし、それがそう簡単な事では無いのである。同じ演奏の、最初期のMONO盤と最初期のステレオ盤を入手すると云うのは言う程簡単では無い。DECCAやEMIと言った西側大手レーベルに関しては私も早くから確認済みである。そう云う確認作業の中で、同じMONO盤でもイコライジングの違う盤が存在する、と云う事実を確認して来た。
しかし、東独エテルナとなると簡単では無い。出回って居る物の多くはセカンド、サードと言ったプレスで、そうなると著しく音質が変化して仕舞う。
このような愚痴を察知し、その耳で確認してみなされ、と、大変な労力を費やしてくれたのが件のShuさんである。誠に頭が上がらない。

送られて来たのは
68年のSTEREO盤(黒ステ盤)
イメージ 2

64年のSTEREO盤(Vステ盤)
イメージ 3

67年のMONO盤(V字盤)
イメージ 4

の3種である。

何分、60年当時のETERNAの状況が正確に把握出来無いので、断言は出来ぬが、68年の黒ステ盤はステレオ盤の3rdプレスではないかと推測して居る。
64年のVステ盤はステレオ盤オリジナルの可能性が高い。
67年V字MONO盤は2ndプレスと思われる。

因みにオリジナルMONO盤のジャケはこれである。
イメージ 5




最初に昨年の記事で紹介したPHILIPS盤を聴く事にする。
これでも永年苦労して辿り着いた再生音である。当初は全く如何んともし難い音質であったが、イコライジング補正する等して本来のゲヴァントハウス管の剛毅な音色、演奏に再現して居る心算である。以下のETERNA盤と比較して戴きたい。
かなり再現した心算ではあるが、定位感に乏しく、音は拡がって聞こえるものの擬似ステと言われても致し方無い。
私はゲヴァントハウス管の実演に接した事は無いのだが、乏しい実演体験の中から、ゲヴァントハウス室内管の音色を参考にこうであろうと云う再生音を導いた。




68年の黒ステ盤である。
高域の抜けは悪いが定位感は初期ステレオ盤レベルには出て居る。これであれば強引に擬似ステレオであると断ずる訳には行かぬ。
上記のPHILIPS盤と全く同じ再生環境であるから、残念乍ら貴重なETERNA盤だと言って有難がると云う所までは行かない。聴き易くはあるが如何にも古いステレオ盤と云う感じで、これであれば国内盤で充分事足りる。




64年のVステである。
上記の黒ステ盤に比べると、明らかに音域が拡がって居るのが判る。定位感も若干ではあるが良く聞こえるが、これは音域が拡がった為にそのように聞こえるのであって、基本的には同じステレオマスターによるものであろう。
低域方向への伸びは明らかに此方の方が優れて居り、ティンパニの打ち込み等も程良く響く。
しかし、矢張りこれでも高域は頭打ちで、音場の狭さが如何にも古い録音だと痛感させられる。





67年のV字MONO盤である。
こうなると、最早別物である。いきなり高域が抜け、視界が開けたように感ずる。高域が伸びると云う事は、低域が深々と伸びる。この謎はどう解釈して良いのか解らぬが、スーパーツィーターを使うと低域が伸びると云う例の現象と同じである。
これは全く違和感が無い。恐らくオリジナルMONO盤であれば、もっと広帯域で生々しい音がする事であろう。
モヤモヤ感が無いのが嬉しい。煩わしさが無く素直に音楽に入って行けるのだ。これは御薦めである。



と云う事は…
益々混乱して仕舞うのだが、59年録音の7番の素晴らしい音質を聴くと、到底擬似ステとは思えず、今回の5番は明らかにMONO盤優位である。
ステレオ録音にPHILIPSの機材を使用した可能性もあり、一概にMONO録音&擬似ステ、と云う結論にはならないであろう。
59年録音の7番、60年録音の6番は非常に良い音質のステレオを聴く事が出来るのである。
今回の検証からすると、初期ステレオ録音&MONOカッティングと云うのが正解だと思うのだが…

カラヤンの悲愴(71年録音盤)徹底比較

$
0
0
Shuさんの予言が見事的中し、4日程寝込んで仕舞った。春インフルと云う奴らしい。
悲愴交響曲の終楽章を聴きつつ逝くのも満更でも無いなと思ったのだが、カラヤンの演奏を聴いて居ると元気が出て来るから、そう簡単な事では無い。
エナジーが充填されるのである。



当ブログでは何度も言って居る事だが、悲愴交響曲の実態は悲愴では無い。
現状世界に対する反逆であり、革命の狼煙である。
であるから、反逆の祖、モーツァルトのSym.39~41&魔笛、であるとか、ベートーヴェンのエロイカ&第9と同様の位置付けである。
何れも作曲者が命尽きると云う共通点があるのだが、フランス革命、ナポレオン革命、ロシア革命と連動して居る事を肝に銘ずる必要がある。
1892~3年にはチャイコ先生はドヴォルジャークともブラームスとも会って居る。かなり危険な任務を引き受けたと推察し得る条件は揃って居る。

作曲者自身が、この曲には謎であるべきプログラムがある、と明言し、リムスキー・コルサコフに対して、今は言えぬ、と言って居る。詰まり、聴手に謎を掛けて居るのである。
私はブログを通してこの謎掛けのヒントを出して来た訳であるが、直感的にこの謎の「解」に極々迫った御仁が、今回の記事の為に音盤を御送り戴いたShuさんである。
以前の記事のコメント欄に「第4楽章の最後のコントラバスのピチカートがちょうど5回、この世の全てが消え入るように鳴らされていることに気付きました。もしかしてこれも隠しテーマの一部なのでしょうか???」
と、さり気無きコメントを書かれて居たのだが、将にそこなのである。
私は、鍵は2楽章に有り、と書いた。5拍子のワルツ。この5に込められた意味を感じて欲しいと。
それに敏感に反応して戴いた事は嬉しい限りである。
終楽章。チェリビダッケは弦にティンパニを重ね、壮絶感を表現して居たが、チャイコ先生の言いたかったのはもっと後ろ。最後のコントラバスの5発にある。一般的にはこの5発は心臓の鼓動、と解されて居るが、流石にそこまで解り易くは無い。それでは謎にならぬ。
最後に5発の止めを刺したと解すべきである。
ヨーロッパ文明は決して明朗快活なものでは無い。


さて、本題のカラヤンの悲愴71年盤であるが、順に確認して行く。
私は元々米Angel(CAPITOL72年盤)を聴いて居たのだが、Shuさんに送って戴いた中に米Angel(MFSL79年盤)が入って居た。これが中々に凝った作りで、オリジナル・ステレオ・マスター使用で、ortofonカッティングで、プレスは日本ビクターとある。所謂LP後期の高音質盤と云う奴である。
先頃、超音盤マニアのM氏から電話があり、このMFSL盤を検討して居る、と云う話であったが、私は御薦め致しかねる。
CAPITOL盤と比ぶるに、如何せん音域が狭くスッキリしない。CAPITOLは米Angelの本家本元である。どうせ狙うならCAPITOL盤、或いは英EMIオリジ盤であろうと思う。ただの人では無い。超マニアのM氏であるから妥協してはいかんと思う次第である。




基本に戻って、英EMIステレオ初盤を聴く。
矢張りこの盤は良く出来て居る。帯域が広く、ストレス無く高域が抜け、低域が沈み込む。ホール感は充分に感ずる事が出来るが、それが決して強調され過ぎず、適度に細部が浮かび上がる。将に絶妙なバランスである。



英EMIボックス盤。これは3枚組で4、5番も入って居る。
しっとりとして滑らかで、非常に聴き易い音質である。上記オリジ盤と大きな違いは無い。一般マニアレベルであればこれで充分であろう。
しかし、今検証して居るのは極めて贅沢な聴き方で、究極のマニア向けであるから厳密に判定するが、若干音域が狭く、少し引き気味の音である。従ってディティルの再現性は単発のオリジ盤の方が優れて居る。
反面、ちょいと引き気味の描き方は、ホールでの実演を好まれる向きにはお薦めである。
何れにしても悪い音盤では無い。




独エレクトローラのボックス盤(ステレオ盤)。これはゴールドレーベルなので殆ど初盤と言っても良い。
これはこれ迄のどのステレオ盤よりも圧倒的に広帯域である。音数が多く楽器の音が正確である。gustav師匠ならばドイチェ・グラモフォンのような音、と評されるに違い無い。と云う事は私の好みの鳴り方をするのであるが、敢えて客観的に評するならば、英EMIオリジ盤の方が奥行方向の描き方が巧妙であると言える。
詰まり、この盤はかなり近接感があり、生々しい。しかし恐らくギューリッヒの再生効果イメージは、寧ろ英盤の方では無いかと考えられる。販売戦略的にドイツ人好みに仕上げたのかも知れぬ。要するに好みの問題であるが、ちーとダルな鳴り方の(例えばタンノイ等)再生システムの場合はこの盤の方が良いと思う。




ここからはクワドロ・フォニック盤となる。
クワドロ・フォニックは、要するに4チャンネルステレオであるが、EMIはSQ方式なので通常の2チャンネル用ピックアップで再生可能である。が、そこは単純な売り手の売り文句であって、当然再生帯域が50KHz以上のカートリッジでなければ、単にモヤっとしたステレオと云う感じにしか聴こえない。



独エレクトローラのクワドロ・フォニック、赤ニッパー盤。恐らくセカンドプレスと思われる。
これも又、大変素晴らしい音質である。上記のエレクトローラのボックス盤が、より情報量が増えた感じで、細部はより克明に、空間に放出される音場感も広々と豊かである。カラヤンを聴く楽しみここに有り、と云う感じだが、言い換えればオーディオ・マニア向けとも言える。
低域も、単に一括りでは無く、中低域、低域、超低域と云うように何層ものセパレーションが確認出来る。大型システムを使用して居る方には堪らない音盤である。オーディオ・チェック用のレファレンス盤としても充分通用する。




英EMIのクワドロ・フォニック盤(オリジナル)である。
素晴らしい音だ。恐らく100人に聴かせたら100人がエクセレント!と言うに違い無い。
上記のエレクトローラ盤よりはシットリ感が出て物の見事に聴き易い。英盤オリジ盤に、無理無く情報量を増やし、その結果360°方向に音場が広がり、臨場感が増して居る。抜群の立体感なのである。
エレクトローラ盤よりはセパレーションはボケて来るが、臨場感は増す、と云う事である。この匙加減が見事なのだ。
こう云うものを聴くと、デジタル録音とは一体何だったのかと考えて仕舞う。
この録音、恐らくCDには入り切らぬ程の情報量である。頭を抑えられたデジタル音盤なんぞは足元にも及ばぬ高音質だ。DVD音質にも引けを取らないであろう。




最後に持って来たのは、独エレクトローラのクワドロ盤オリジナル(ゴールド盤)である。
最後に持って来たには訳が有る。これは上記全ての音盤よりも、全ての面に於いて優れて居るのである。ここ迄音場感豊かであり乍ら細部の動き迄が克明に聴き取れる。コントラバスのパッセージが、単に勢いに任せたもので無く、如何に細かな表現に拘って居るかが聴き取れるのである。
ここ迄来ると、流石の私も「71年盤も捨てたもんじゃ無いわい」と思わずには居られぬ。エネルギーが半端では無い。物凄い迫力である。




と、ここ迄書いて、それでも私はカラヤンの悲愴はDGの76年盤を好む。
エレクトローラのクワドロ盤は、只事ならぬ迫力で、思わず聴き入って仕舞うのだが、矢張り何か物足り無いのである。それは、チャイコ先生の意味深の謎掛けであり、背腹を穿つ如き、本来のパセティークの意味する処である。
カラヤン先生、そこをどうしても表現したくて5年後に、肝胆相照らすヘルマンス録音で残したのである。
改めて聴き返すと、カラヤン先生のエネルギーと執念がビシビシと伝わって来る。これでなくてはいかん。

物凄い悲愴を聴くのであれば71年盤。カラヤンの悲愴を聴くのであれば76年盤。と云う結論に達した。

寝ながら音楽を聴く為に

$
0
0
gustav師匠から尻を叩かれ、喝を入れられたので、青い呼吸をしながら背中の痛みに耐えて書いて居る次第。
どうも、最近調子が良くなった、と記事を書き始めると途端に激烈な発作に襲われると云う状況が何度も続いて来たので、昨今の体調の事は触れない事とした。

最近は寝ながらタブレットでネットを巡ったり、音楽を聴くなんぞと云う横着な状況に成って仕舞い、真摯に音楽と相対して居ない。
が、イヤフォンとかヘッドフォンで聴くと、自分のアップした音源が思ったような音に聴こえて来ない事に立腹して仕舞い、身体に良く無い事甚だしい。
そもそもPCに繋いで居るスピーカーはONKYOのS-9900と云う33cmウーファー2wayの大物である。こいつをモニターにして収録して居るので、小型SPやイヤフォン、ヘッドフォンでバランスが取れる道理が無い。
これは何としてもヘッドフォンで調整した音源を収録すべきと思い立った。
イメージ 1

ネット環境は人それぞれ、十人十色であろうが、殆どの場合は小型のスピーカーを繋いで居る事と思う。
小型にしろ大型にしろ、スピーカーの場合は高域を調整(補強)して聴いて戴ければ幸甚である。
ヘッドフォンの場合は概ね調整無しのフラットで御聴き戴ければ良いかと思います。

昨今、風聞に接するに、レコード復活の兆し有りとの事だが、阿呆の様に高いプレーヤーやカートリッジ。音質調整が不備なアンプ等々の状況を踏まえると、烏滸の沙汰(おこのさた)である。
音盤によって再生方法が異なる、なんぞと口走った処で誰が耳を傾けよう。

今回は態と録再特性は調整せず、RIAAのみで収録した。
針による差違を確認する為である。
音盤の詳細は、体調の事もあり省略した。パーソネル等の情報は、御面倒でも御自身で確認戴きたく存じます。

収録曲はJAZZ2曲、クラシック2曲。
最初はアート・ペッパーの代表盤、meets The Rhythm SectionからYOU'D BE SO NICE TO COME HOME TO
次はコルトレーンのBalladsからSAY IT
次にベートーヴェンの第5から1楽章、ワルター/コロンビア響
最後はブラームス4番から1楽章、ケルテス/VPO
何事も初心忘るべからず、である。誰もが耳にした名盤を選んだ。

再生針は、DENON DL103FL、DENON DL103SA、London Maroon、Grace F14Ex、の順である。


CONTEMPORARYのmeets The Rhythm Sectionはロイ・デュナンの録音である。Lチャンネルのペッパー、Rチャンネルのリズムセクションのセパレーションを確認して戴きたい。
音盤はワーナー・パイオニアの再発物だが、非常にバランスの良い出来栄えである。サックスの曇りが取れる様に高域を補って聴いて戴きたい。

1-1.DENON DL103FL でのペッパーYOU'D BE
   オリジナルのDL103よりはシルキーで上品な表現力。低域の踏ん張りは103ならではの安定感がある。反面金属系の音は上品に丸められて、聴き易くはあるが暖か過ぎ、冷たい金属の響きに物足りなさを感じる。



1-2.DENON DL103SA でのペッパーYOU'D BE
   グッと帯域が広がり音場感が増す。大変良く出来たカートリッジだ。金属のタッチも良く表現出来て居る。



1-3.London Maroon でのペッパーYOU'D BE
   所謂DECCA針だが、帯域を欲張らず美味しい所をシッカリ聴かせる。非常に音楽的で、音の輪郭をきっちりと描く聴かせ上手なカートリッジである。



1-4.Grace F14Ex でのペッパーYOU'D BE
   プロ用の特殊なカートリッジなので、在るべきものが在るべきように聞こえる。音盤に刻まれて居る情報を余す処無く拾い上げて来る。その分ノイズも情け容赦無く再生されるので音盤の手入れを怠ってはならない。




コルトレーンのBalladsは言う迄も無くIMPULSEのゲルダー録音だ。音盤は日コロのabc Impuls盤。
タイナーのピアノの響きの出方で針の特徴が掴める。
コルトレーンのサックスの曇りが取れるように高域調整して戴きたい。


2-1.DENON DL103FL でのコルトレーンSAY IT
   例によってシルキーで聴き易く、低域も厚く出るが、金属性の音やピアノの余韻に関しては優し過ぎて食い足り無い。


2-2.DENON DL103SA でのコルトレーンSAY IT
   103系の足腰の強靭な鳴り方であるが、MCカートリッジ特有の減衰率の高さから、ゲルダーの響きの美しさの表現にはちょいとキツい。


2-3.London Maroon でのコルトレーンSAY IT
   肩の荷が降りたようにゆったりと無理無く音楽に浸れる。矢張り聴かせ上手なんである。ピアノらしい硬質感も上手く表現し、強調感の無い音楽表現は流石である。


2-4.Grace F14Ex でのコルトレーンSAY IT
   スタジオの空気感迄をきっちりと拾い上げて来る。ゲルダーのインパルス録音はこのように広い空間表現が魅力となって居る。




ワルター/コロンビアの第5なんぞは誰もが耳タコだろうから、余計な講釈は要らぬであろう。しかし、一言弄するならば、マックルーアは音場感に相当な気を遣って居ると云う所を御聴き取り戴きたいのである。
音盤はSX68カッティングのSONY盤。高域はJAZZよりも更に高目に調整して戴きたい。


3-1.DENON DL103FL でのワルター・ベト5
   相変わらずのシルキーサウンドで、かなり距離感のある俯瞰的な描き方である。




3-2.DENON DL103SA でのワルター・ベト5
   視界が広がり細部もかなり拾えて居る。しかし、103系の腰の強さが少々鬱陶しく感じるのが残念。



3-3.London Maroon でのワルター・ベト5
   何時ぞやも述べた事があるが、何故かDECCA針はCBS盤と相性が良い。
DENONと比較すると、一気にストレスが取れ、音楽の躍動感が増す。



3-4.Grace F14Ex でのワルター・ベト5
   帯域が広く、滑らかで申し分が無いのだが、DECCA針の方が面白く聴けるのは如何なる事であろう。相性と言うしか無い。





ケルテスのブラ4は私の愛聴盤である。これはVPOのブラ4のベスト盤と言っても過言では無い。録音は名匠ロック。大きな音場感が見事である。
音盤は英DECCAの全集盤。
DECCA盤はRIAAと相性が悪く、本来は再生特性の調整が必要であるが、先述の通り態とRIAAで収録して居るので、高域補正で凌いで戴きたい。


4-1.DENON DL103FL でのケルテス・ブラ4
   何かシャキっとしない。国内London盤のようなもっさりとした感じが拭えない。



4-2.DENON DL103SA でのケルテス・ブラ4
   少しは芯が入った感じがするが、103っぽいもっさり感が付き纏う。



4-3.London Maroon でのケルテス・ブラ4
   DECCA盤だからDECCA針、と云う訳では無いが、一気にストレスが取れ、自然な響きに近付く。



4-4.Grace F14Ex でのケルテス・ブラ4
   矢張りクラシックはGraceが合う。これが私が永年聴き馴染んでいるVPOの音色である。この空気感が何物にも代え難いのである。





流石にストレスが溜まって来たので、ffss補正したものを最後に貼って置く。カートリッジはGrace F14Ex。
















フリッツ・ライナーを聴く

$
0
0
体調の事も有り、暫くは昔から私が聴き馴染んで居る、好みの音盤をアップしつつ、記事に絡めて行こうと考えて居る。

音盤の話となると、他人とはちょいちょい食い違う事がある。
まあ、再生環境によってそれぞれ違う音を聴いて居る訳で、自身が甚く気に入って居る音盤の音質であっても、他者の評価の低い場合があり、奏者には気の毒としか言いようが無い。
JAZZでも、昔の御粗末なる装置で聴いて居た時分は、ベタっとしたドンシャリ音であったものが、最近の機器では、成る程なと腑に落ちる程アコースティック感を聞き取れたりもする。
音盤に刻まれた情報が変化して居る筈は無いので、再生環境が変わると音楽の印象も変わるのである。

当ブログでは繰り返し何度も述べて居る事だが、レコードの録再特性はバラバラで、RIAAで統一なんぞはされて居らぬ。変な音だな、とか、下手糞な録音だわい、と感ずる場合、殆ど特性が合って居ない事に由来する。
前記事では態と音盤毎の調整を行わず、RIAA一本槍で収録し、我が寝ながら鑑賞の為にヘッドフォンで調整したのであるが、皆の衆が聴く場合、各々好みに合わせて音質調整(高域)して戴きたい。


今回の鑑賞に取り出したのは、フリッツ・ライナー指揮のRCA盤を2枚。
ブラームスの交響曲第4番とレスピーギのローマの松である。
ワシはライナーのファンだぞ、と云う御仁には御目に掛かった事は無い。ステレオの初期に早々に亡くなって仕舞ったので、ステレオ再生装置が遍く日の本に行き渡った頃には影の薄くなった人である。
イメージ 1
若き頃の写真を見ると、中々にカッコ良い。しかし、指揮姿がどうかと云うと、カラヤンのように神秘的でも無ければバーンステインのように躍動的でも無い。何事かやって居るのかと、首を傾げざるを得ぬ程に詰まらぬ指揮振りなのである。
バーンステインの師匠とは言うが、弟子にはこの指揮スタイルは全く踏襲されて居ない。
何かの映像で、バーンステインが佐渡に「ライナーは手首だけでフォルティッシモを出した」と云うような事を言って居たのを見た事がある。
眼力と手首の動きのみで、強靭なるフォルティッシモを引き出した稀有な指揮者であった。
強引なマネージメントや頑固一徹な性格から、武勇伝の類には事欠かないのだが、ルービンシュタインがミスタッチをした時に、冷淡な態度に切れたルービンシュタインが、「貴方のオケはミスをしないのですか!」と言った処、「しない」と一言。
それ程にオケをシゴき上げたと云う事であろう。

私は良く、RCA盤は音が良い、と言って居るが、それはトスカニーニとライナーに負う処が大きい。
音楽が厳しい。
厳しくて辛くなる事が多いのも事実であるが、音楽のツボに嵌った時の壮絶度合いも又大きい。



レスピーギ ローマの松(アッピア街道の松)
ライナー/シカゴ響 59年録音

ローマの松の聴き処は当然「アッピア街道の松」である。
私は未だにライナーのアッピアに心惹かれ、その壮絶な音響に圧倒される。ショルティの春祭や展覧会の絵なんぞ、その比では無い。




ブラームス交響曲第4番
ライナー/ロイヤル・フィル 60年録音

ライナーのブラ4を始めて聴いた時、その余りの速さ、素っ気無さに驚いた。しかし、元来が好きな曲である。ジックリと聴くと、音の良い事も有り、少々厳し過ぎる第1楽章にも慣れ、次第に引き込まれるようになった。
2楽章では打って変わり、情緒纏綿と歌い込んだ音楽で心が満たされる。
3楽章ではもっとティンパニが打ち込まれるのかと思いきや、然に非ず。見事なトライアングルと強靭なコントラバスに耳が引かれる。
4楽章は絶品で、深く抉った音楽が感動をもたらす。オーマンディの爆演には及ばぬが、トロンボーンの咆哮等、ドッシリとした中々の迫力である。
録音エンジニアは、あのウィルキンソンである。






TAKE FIVEを聴く日

$
0
0
寝ながら鑑賞の為の収録も徐々に増えつつある。
今回は日本人なら誰でも知って居る「テイク・ファイヴ」である。
2012年にブルーベックが亡くなった時、テイク・ファイヴの記事を上げようと思ったのであるが、その時は様々な思いが去来し、冷静で居られなかったので今日迄延びて仕舞った。

JAZZを聴くようになった切っ掛けはロリンズのサキコロ、ブレイキーのモーニンであるから、思えば60年代後半だったような気がする。
デイヴ・ブルーベック・クァルテットのテイク・ファイヴに夢中になって居たのは70年代に入ってからであった。当時まだガキであった私は、ジャズの話を出来るのは10歳以上も年長の大人共であって、青いな、未熟だなと言われつつも、自分の気に入った音楽を見付けてはコソコソ聴いて居た覚えがある。
或る時、年長の「ジャズ聴き」に、うっかりジャズを聴いて居る、と漏らした事があった。「ふーん。で、何を聴いて居る?」と問われ、咄嗟にブルーベックのテイク・ファイヴです」と答えた。
すると、「ブルーベック? そりゃぁ駄目だな」と言うので、当方は「は?」である。「ブルーベックちゅうのは白人だぞ。白人のジャズは所詮は真似事で、本物のジャズでは無い。コルトレーンを聴きなさい」てな、意味不明の罵倒を受けた覚えがある。
これだから「ジャズ聴き」は嫌いである。こちらはジャズとは何ぞや、とか、反骨精神がナンちゃらと云った小難しき事には興味が無いのである。好きな音楽が聴きたい、と云うだけの単純明快な考えが「ジャズ聴き」の反感を買う。
この私の単純明快路線にテイク・ファイヴは見事に嵌っただけの事なのである。

ブルーベックと言えばテイク・ファイヴ、と云う程にブルーベックの代名詞ともなった曲であるが、作曲者はポール・デスモンドである。
5/4拍子のこの曲は、ブルーベックがトルコで、伝統的な民謡が西洋の音楽には珍しい9/8拍子で演奏されるのを聴いたのに刺激を受けた事に起因する。
トルコ音楽はクラシックにもジャズにも影響を与えて居るのである。

ブルーベックもデスモンドも、当初はこの曲がこれ程ヒットし、遍く世界に広がるとは思いもしなかったであろう。
初演は1959年、ニューヨークのナイトクラブで演奏されたのであるが、同年、アルバム「TIME OUT」が録音され、A面の3曲目に収録された。
イメージ 1
これが大ヒットとなり、以後TIME OUTのジャケットにはFeaturing TAKE FIVEと表記されるようになった訳である。
イメージ 2





今回は、原初のTIME OUTのSTEREO盤、MONO盤、ベルリンライヴ盤、大阪ライブ盤を紹介するが、音盤の差異に言及する当ブログとして、参考迄にYOUTUBE上にあるCD音源を御借りして来たので、最初に御聴き戴きたい。
59年録音
Dave Brubeck(p) Paul Desmond(as) Eugene Wright(b) Joe Morello(ds)







TIME OUTオリジナルSTEREO盤より収録
ここから全て始まったのである。
私はこの録音では、デイヴのピアノと云うよりは、モレロのドラムのドスンと云う腹に堪える低域の響きを聴きたいのである。CD音源では私の聴きたい響きが上手く表現されて居ない。当然、高域の響き、音場感もLPの方が優れて居るのが判ると思う。
こう云う事を言わずして、LPの復活なんぞと云う茨の道は有り得ないのである。






TIME OUTオリジナルMONO盤より収録
流石にこの時期のMONO盤は聴き易い。音楽が凝縮され、濃い味である。
盤自体には多くの小傷があるが、MONO針再生であるから気になる様なノイズは拾わない。古の新鮮な音質を味わって戴きたい。





ATLANTIC盤「ヨーロッパのデイヴ・ブルーベック」より収録
Dave Brubeck(p) Paul Desmond(as) Gerry Mulligan(bs) Jack Six(b) Alan Dawson(ds)
TAKE FIVEは72年4月のベルリン・フィルハーモニーライヴである。
マリガンのバリトン・サックスが聴けるのも嬉しいが、アラン・ドーソンのドラムが凄い。
この盤が出た当時、この何時果てるとも知れ無いドーソンのドラムソロに手に汗握り、これを如何に刺激的に再生するかと云う事を、仲間内で競ったものである。
数あるTAKE FIVE演奏の中で、私はこの演奏がNo,1と断言して憚らない。





Aurex盤「デイヴ・ブルーベック・カルテット」より収録
Dave Brubeck(p) Michael Pedicin(ts) Chris Brubeck(eb) Randy Jones(ds)
Aurex Jazz Festival'82のライヴ録音。
TAKE FIVEは82年9月1日の大阪フェスティバル・ホールのライヴである。
上記のヨーロッパ・ライヴから10年を経て居る。この間デスモンドは亡くなって居る。サックスはマイケル・ペディスンがテナーを持って居る。が、ベースに息子のクリス・ブルーベックが参加して居る事に注目して欲しい。
更にドラムのランディ・ジョーンズがノって居る。東芝の録音はイマイチなんであるが、このような催しを残してくれただけでも有難い事である。この瞬間の貴重な記録である。
80年代であってもブルーベックは変わって居ない。振れて居ない。一貫して我が道を行って居るのである。
であるからTAKE FIVEは世に残ったのである。



カラヤンとオーマンディ

$
0
0
今回は上級者向けである。
次なる記事は如何にせんと思案して居た処、gustav師よりヒントを戴いた。
オーマンディのブラ4が気に掛かると。
更に別方面から「私も気になります」と。これは貴重な女性の意見である。
男子たる者、何時如何なる時でも女性は大事にせにゃいかん。
と云う事で急遽記事を認めて居る訳である。
しかし、オーマンディのブラームスのみでどのような記事を書くと云うのか。コイツは中々に難しい。
と、苦慮して居たところ、師のカラヤンのチャイコフスキー第5交響曲の記事が目に留まった。
成る程。カラヤンとオーマンディを比較してみようではないか。

カラヤンは解り易い。解り易いから大方の聴者に受け入れられる。反面、解り易いが為に、突つかれる事も多いのだが…
そしてオーマンディはもう少々解り難い。
オーマンディはカラヤンよりは少し先輩であるが、同時代にスーパーオケを駆って壮麗な音響美を競って居た存在である。
では、何故解り難いのかと云う事を探ってみたいと思う。

1に、欧州偏重から来る偏見があるように思う。
私がガキの時分、昭和一桁の音楽聴きは、「フィラデルフィアなんぞは伝統が無い」であるとか「金に糸目を付けずに作り上げた金満オケじゃ」とか、兎角音楽がら離れた部分で批判が多かった。音楽を聴け!と言いたい。

2に、オケの音が凄過ぎて録音では捉え切れて居ないように感ずる。
オーマンディは主にRCAとCBSで録音されて居るが、これが大いなる問題だ。
60~70年代の主流はキングのLONDON盤、独グラモフォン盤、そしてEMIである。更に言えば東芝EMIの音は劣悪なんであるが、この話は置いておく。
要するに上記3社はスターを揃え、クラシック界の大手である。からして、聴手はどうしてもLONDON盤とか独グラモフォン盤が良く聞こえるように機器を調整して仕舞う。
何時も云うように、上記3社は録再特性がバラバラである。どれかを聴き易くすると、どれかが聴き難くなる。特にキングのLONDONレコードに合わせると、他は概ね痩せた音になる。
しかし、RCAは元々Hi-Fiである。そしてRIAA規格の元祖であるから、DECCAやグラモフォンに合わせると途端に音楽が遠のく。
余りに精緻過ぎる音響と、録再特性の御蔭でオーマンディの良さが体感出来難い訳である。
更にもう一つ指摘して置くと、一時期のビクター盤は盤の材質が悪い。よって、折角の良き音質なのに要らぬノイズが多く、良い音で再生するにはそれなりのウデを要する。ビクター盤は丸針再生が無難である。

3に、オーマンディの音楽が「通」向きである。
これが一番難しい問題だ。フィラデルフィア・サウンドとかオーマンディ・サウンドと言われる独特の音調であるが、これは単に高価な楽器を揃えれば出せると云うものでは無い。単純に言えば音のブレンドであり、高度な技量を要する。また、音楽の運びも極めて精緻に考え抜かれて居て、アゴーギク、デュナーミクと言われると言われる表現法も巧みである。これのみでも音楽に引き込む力を有するのだが、加えて刺激感が無く見事に整った弦楽器群の音色、大音量でもけたたましさを感じさせないブラス群の絶妙なハーモニー等、相当に音楽を聴き込んで居る者で無くては反応しない類の音楽技量である。
従って、大音量であるにも関わらず、角が立たず、感触が柔軟なのである。
しかし、良く聴くと各楽器は充分に鳴り切って居り、時には言語に絶するような重厚な迫力で圧倒される。
詰まり、「通」向きの音楽作りなのである。



チャイコフスキー 交響曲第5番 第4楽章
カラヤン/ベルリン・フィル 71年録音 EMI(ELECTROLA)盤LP
DGのチャイコ5番は私にはキツ過ぎる。若い時分でさえキツいと思って居たのに、今となっては心臓に悪い事この上無い。
Shuさんより折角送って戴いたエレクトローラ・オリジナル盤があるので、これを聴き直してみた。
例によってギューリッヒ録音である。以前の記事で比較検証した通り、エレクトローラ盤は楽器の音色が正確である。その分ヘルマンス寄りの音だが、この曲でこの演奏だと強烈だ。痛い程の迫力と、心乱される程の細部の彫琢が刺激感満載と云う感じだ。
確かにこの演奏を聴くと、私も疲れる。オケが鳴り切って居るのも然る事ながら、先を急ぎ過ぎて居るように思えてならぬ。聴手に安息を与えまいとするような、息を吐かせぬ音楽である。
この時代のカラヤン/BPOにしか成し得ぬ激烈な音楽である。




チャイコフスキー 交響曲第5番 第4楽章
オーマンディ/フィラデルフィア管 74年録音 RCA盤(ビクター)LP
私が若き時分に最も頻繁に聴いて居たのがこの音盤である。
何せ音が美麗である。単に美麗と云うのみならず勇壮であり重厚である。シルキーな弦と力強く輝かしいブラスが巧みな遠近感を以て描かれ、聴き疲れしない。自然と音楽に引き込まれる力がある。
これを聴くとカラヤンの壮麗感と雖も一本調子に聴こえる。鳴り切って居る力感では互角であるがコンポジション(構成)が巧みなんだわ。
特にティンパニの活かし方は一級品と言える。
これを聴いて居た時分、「何でオーマンディよ」「矢張りムラヴィンだろ」なんぞと散々貶されて来たが、今聴き返しても素晴らしい演奏であると断言出来る。私はこの演奏が好きである。




ブラームス 交響曲第4番
カラヤン/ベルリン・フィル 63年録音 DG盤LP
この演奏には最初から惚れて居る。私はカラヤンのブラ4としては、この盤が最良最高の出来と思う。
1楽章の柔らかなフレージングと重厚な響き。各奏者の技量も然る事ながら、ハーモニーの作りが実に見事である。深い呼吸もブラームスの湿った世界を表出するに適したものだ。
2楽章は若干センチメンタルに傾いたが、しみじみとした情緒が聴き飽きしない音楽となって心を癒す。木管の技量に脱帽する部分でもある。
こう云う美しさはカラヤンならではで、得意中の得意と言って良いであろう。
3楽章は頭から力が入って引き込まれる。快調なテンポだが重量感を伴って聴き応え充分である。後半のティンパニの持続連打は控えめだが、オケ全体の勢いがあるので物足りなさは感じない。
4楽章は誰しもが多少構える「名曲」であるが、この演奏も出だしから圧倒的な重厚感で音楽に引き込む。古風な楽想であるから、ゴツゴツとした演奏も多い中、カラヤンは角の立たない巧みなフレージングで感情豊かに音楽を運ぶ。
重厚壮麗な後半の盛り上がりも、テンポを煽る事無く、分厚いハーモニーを充分に響かせ、最後は安定感充分な見事なランディングを見せる。




ブラームス 交響曲第4番
オーマンディ/フィラデルフィア管 67年録音 CBS盤(ソニー)LP
この演奏も私が好んで聴いて居る音盤である。何せ音が美麗で誠に宜しい。
前記事で、何気無く「オーマンディの爆演」と書いた処、gustav師が反応した。「気になるだろうが」と仰るので、近々御紹介致します、と返したのだが、全く別の方からも「私も気になります」との連絡を戴き、急ぎ収録した訳である。
オーマンディの爆演と言っても、オーマンディと云う指揮者が甚だしきデフォルメで音楽を歪めたり、奇面人を驚かす如き怪演や奇演をする筈も無く、それらを期待の向きには当てが外れる事となる。
1楽章の出だしは少々硬い印象を抱くが、音楽が進むにつれ次第に持ち前の滑らかさ、上質なシルキートーンが支配するようになる。リズムの刻みはカラヤンよりは減り張りがあるが、重厚なハーモニーは刺激が無く美しいので音楽を滑らかに感じさせる。力一杯鳴らし切る演奏は、充分に爆演の域に達して居るが、そうは感じさせない処が美点なのだ。
2楽章は情緒豊かな美しいクラリネットに惹かれる。そして、合いの手のホルンが又美しい。
言い出せば限が無い。何処を切っても美しいのだから仕方が無い。
3楽章が又、実に見事な出来栄えだ。早目のテンポで大音量、強靭なリズムであるが、肌理が細かく丁寧な音楽の運びであるから粗が見え無い。
そして、後半のティンパニの持続連打の表現が見事である。立体的なコンポジションの妙である。
4楽章は最大の聴き処だ。金管は容赦無く目一杯吹き鳴らされ、弦の滑らかさと見事な対比である。対位法処理が巧みで各パートが埋没しないのでブラームスの見事な構築性が如実に炙り出される。
後半の盛り上がりも金管群が見事だ。爆演と言って良い程の強奏だが、それでも破綻しない凄味がある。カラヤン盤が予定調和に感じられる程のエネルギーだ。狂気さえ感じさせるエネルジコ・エ・パッショナートだ。






MONO盤で聴く新世界交響曲

$
0
0
突如、米国のShuさんより小包が届いた。何が来たと考える迄も無く、外形でLPである事が理解出来る。
夕食を摂り自室に戻って中身を確認すると、1ダース程のLPだ。その内の一枚は10吋盤で、全てMONO盤である。
何時もの如く無言で送られて来るのだが、聞かずとも判る。これで記事を書けと云う暗黙の指令だ。
内訳は、東独ETERNA盤コンヴィチュニーのベートーヴェン交響曲2~9盤。
同じく東独ETERNA盤コンヴィチュニーのシューマン交響曲2番。良く調べては居ないが、ジャケットのデザインを見る限り、殆ど初盤と思われる。
そして、残る二枚が今回の主題となって居るドヴォルジャークの新世界である。

実はこの音盤は、yositakaさんから御紹介戴き、何としても聴きたいものだと希って居た音盤である。
シルヴェストリ指揮フランス国立放送管の57年録音のMONO盤だ。
私の力量では捜し切れず、米国のShuさんに密かに依頼して居たのであるが、それが突如目の前に現れた。Shuさん流のサプライズ演出だ。
一気に血圧が上昇し、舞い上がった。
yositakaさんからは、米Angel盤だと御教授戴いて居たので、Shuさんには「米Angel盤にある筈」と連絡して居たのだが、件の米Angel盤と、もう一枚。
何と仏EMI盤(PATHE MARCONI盤)までが送られて来たのだ。舞い上がらずには居れ無い。

と云う事で、今回はシルヴェストリの新世界の57年の旧録音がメインディッシュである。
旧盤と云うからには新盤もある訳で、これは同じオケで59年のSTEREO録音である。yositakaさんが「すっかり参ってしまった」と仰られたのは旧盤の方だと云う事なので、米Angel盤を探し求めて居た訳である。
今回は米Angel盤とPATHE MARCONI盤を聴き比べるが、これが歴然たる音質の差があって興味深い。
更についでに、クーベリックのMONO盤2種と、フリッチャイの旧盤も聴き比べてみた。
シルヴェストリ:1913年生まれ(ルーマニア)
フリッチャイ:1914年生まれ(ハンガリー)
クーベリック:1914年生まれ(チェコ)
ほぼ同年代の指揮者で、何れも名演揃いと言って良い。

私がクラシック音楽を聴き始めたのは、クーベリック/VPOの新世界が切っ掛けである。STEREOレコード出始めの頃のLONDONレコード、SLB 14。モノラルとステレオの違いも解らぬガキの時分の事である。この当時はドヴォルジャック 交響曲第5番 と云う表記であった。
イメージ 1
この演奏は装丁が変わる度に新しく買い直した。最初のSLB 14は、何せレコードの扱いの何たるかも知らぬ頃で、見るも無残な状態になって仕舞ったのである。新しきプレス、新しき材質の方がより進化するであろうと思い込んで居た時期である。
しかし、如何にしてもあのSLB 14を聴いた時の感動が蘇って来ないのだ。ザックリとした田舎の味わい、野太い迫力は単なる思い込みだったのだろうか…
後年、SLB 14を見つけて買い直した。矢張り思い込みなんぞでは無かった。
最初に聴いた、あの感動がまざまざと蘇った。
更に、ネット上でDECCAのMONO盤を見つけて購入した。勝手な想像で、きっとMONO盤の方が、より野太くザックリ感が出るに相違無いと考えた。
しかし…この想像は見事に外れた。野太い野性味のある原初の新世界は、ステレオ盤のSLB 14でしか出せない音だったのだ。



クーベリック/ウィーン・フィル 56年録音 DECCA盤(MONO)
この盤は非常に状態が悪い。傷だらけである。2楽章はトレース不能で思い切って割愛した。御了承ください。
VPOはのっけからローカルな味わい。決して機能的とは言い難い古の味わいである。革張りのティンパニが野趣豊かで蒼然たる雰囲気を助長する。
端正でピタッと決まったシカゴ盤とは全く異なり、全体的に情緒的な演奏と言える。





クーベリックの新世界ばかり聴いて居た或る日の事、父親の買って来たDG盤のカラヤンと出会った。SLGM-1250である。裏ジャケの表記には、ドヴォルザーク 交響曲第五番(九)番、と書かれて居たが、何故このような珍妙な表記になったかと云う事は一つも書いて居ない。
イメージ 2
この音盤によって私はカラヤン/BPOの凄さとステレオ録音の素晴らしさを思い知らされる事となった。
晩年のカラヤン/VPO盤が名演であると喧伝されて居るが、私は今でもこの盤の凛として颯爽たる「新世界」に心惹かれる。
このSLGM-1250は2枚所有して居る。クーベリック盤で懲りて、同じ轍を踏むまいとの思いからである。しかし、同じであろう筈のSLGM-1250の音がそれぞれに違う。時間と空間の壁を超えて、私をダーレムの教会に誘うのは、矢張り最初に聴いたSLGM-1250なのである。

暫くはカラヤンを聴いて居たのだが、或る時PHILIPSのクーベリック/シカゴ響の廉価盤に出会い、すっかり魅了されて仕舞った。MONO盤であるが、そんな事を忘れさせる演奏なのである。理由は簡単だ、最初に出会ったクーベリック盤の、何とも懐かしく、鄙びて図太い音楽と、カラヤンの颯爽たる隙の無さを、足して2で割ったような演奏なのだ。
これがクーベリックの新世界の初録音で、原版はMercuryのMG 50002では無いかと思うが、私はMercury盤は未だ聴いて居ない。
PHILIPSの廉価盤は、矢張りどうしてもスッキリとしないので、音の良い音盤を探して居た処、英グラモフォンのALP 1018を入手し、以後この盤を好んで聴いて居る。




クーベリック/シカゴ響 51年録音 英GRAMOPHONE盤(MONO)
私はALP盤は好きだ。ドッシリと重く分厚い音盤は如何にも高級品と云う体で実に頼もしい。何よりもレーベルのカラーのニッパー君が美しく愛らしい。
颯爽として適度に厚みのある堂々とした演奏である。乾いたティンパニの響きが身体に染み渡るのも快感だ。インテンポで、最後まで堂々とした王道を行く演奏である。





或る日、レコード店で売れ残りのHELIODOR盤を買ったのがフィリッチャイとの出会いであった。フリッチャイ指揮BPOの59年録音である。
この演奏が完全に私のツボに嵌って仕舞った。大変エネルギッシュな演奏なのだが、ふとテンポを落とした処の郷愁感が並大抵では無い。心をもって行かれる演奏とはこの事だ。
調べて見ると、フリッチャイ家はチェコのモラヴィア出身だそうで、私の中の、フリッチャイと言えばハンガリー、と云う単純な構図は敢え無く崩れ去った。フリッチャイの心の中では、矢張り特別なる思い入れがあったのだと改めて感じ入った。
以後、私は新世界の演奏と言えばフリッチャイ/BPO盤を随一に推す事となるのだが、HELIODOR盤は何としても音がスッキリしない。これは是非とも大元のDG盤を聴くべきと探って行く中で、DGのセカンド盤と共に入手したのが、フリッチャイ/RIAS響の53年録音盤LPM 18142である。
聴いてみるとこれが結構な爆演なのである。と言うと、爆演とは何じゃ、と突っ込まれそうだが、私なりの勝手な解釈では、爆発的にエネルギッシュな演奏と捉えて居る。
フリッチャイ/RIAS響も相当なエネルギーを発散し、緊張感に満ちた演奏であるが、抜く処のツボは押さえて居る。その抜き方が郷愁をそそり絶妙である。戦後のRIAS響のレヴェルの高さにも驚かされる一枚である。





フリッチャイ/RIAS響 53年録音 DG盤(MONO)
強烈なアクセントと猛烈なスピード感で突き抜ける名演である。惜しむらくは猛烈なエネルギーを録音が捉え切れて居ない処があり、50年代後半の録音・カッティングであればもっと鮮明で迫真の名盤となったであろう。
随所に顔を覗かせる郷愁に満ちた旋律も、この演奏を意味深いものとして居る。





2013年9月にyositakaさんからシルヴェストリの旧盤の御紹介を戴いたので、彼此4年半の間、悶々として居た事になる。
数多の名演を聴かれ、私と同様、フリッチャイ/BPO盤を第一に推されて居るyositakaさんの紹介であるから、死ぬ前に是非聴いて置きたいと希求して居た。
それが突如現実のものとなった。上記の通り米国在住のShuさんから、依頼して居た米Angel盤と、オリジナルのPATHE MARCONI盤の2枚が送られて来た。
シルヴェストリと云う人は、yositakaさんもさらりと触れて居られたが、同じ事の出来無い指揮者、詰まりその時々のインスピレーションに重きを置いた演奏をした人である。であるから、尚更旧盤を聴く価値があるのだ。
そして、矢張りこれは噂に違わぬ爆演であった。




シルヴェストリ/フランス国立放送管 57年録音 米Angel盤(MONO)
これは一気呵成に突き抜けた直線的な演奏だ。ゴツゴツとした風合い、妥協を許さぬティンパニの強打等、成る程、一聴の価値有りと云うyositakaさんの評価が理解出来る。
その一方、フランスのオケらしく、音色が明るく微妙に柔らかい部分が織り交ぜられ、無骨一辺倒とは行かぬ処が名盤たる所以であろう。





シルヴェストリ/フランス国立放送管 57年録音 仏PATHE MARCONI盤(MONO)
米Angel盤はソフトな響きで暖かく、聴き易い音質で、良くも悪しくもEMI的な特徴が出て居た。
処がPATHE盤となると一転、広帯域、高分解で一皮剥けた感が有る。その分、分厚い迫力は後退して聴こえるが、一曲聴き通すにはPATHE盤の方が気が休まる。
同じ演奏録音でも、音盤が変わると音楽の印象が変わる、と云う私の言が俄かに信じられぬ方にも、この両盤を聴き比べると御理解戴けるのでは無いかと思う。
末筆乍ら、何時も音盤探索に御苦労戴いて居るShuさんに改めて感謝申し上げます。






コンヴィチュニーのベートーヴェンの謎

$
0
0
前記事で触れた如く、Shuさんより一連のETERNA盤コンヴィチュニーが送られて来たので、そろそろ決着を付けるべき時が訪れたようだ。
何の決着かと云うと、コンヴィチュニーのETERNA録音の謎に就いて、である。
コンヴィチュニーと云う人は、丁度モノラルとステレオの端境期に全盛期が合致して居た事と、東独と云うややこしい環境下に在った事で、音盤愛好家の間では妙な「謎」が飛び交った。
曰く
「コンヴィチュニー/GOLのすべてのETERNA録音はモノーラルで、ステレオ録音とされるものは、モノーラル録音の擬似ステレオ化されたものである」

然も、この説には客観的根拠と称される言説が有って、徳間の関係者が、「ETERNAのステレオ機材導入は64年である」と言った、と云うのが根拠とされて居る。
で、要するに59年~61年録音のベートーヴェンは全てモノラル録音で、ステレオ盤は全て擬似ステレオ盤である、と云うのである。
私にとっては将に青天の霹靂と云うべき「新説」で、幾ら徳間の何某の証言があろうと俄かには信ずる事が出来ない。
何せ私は長い長い間、コンヴィチュニーのステレオ盤ベートーヴェンをこよなく愛好して来たのである。しかも、第5番を除いて概ね満足出来る音質なのである。
こう云う「新説」或いは「珍説」を真剣にネット上で公開されて居る御仁が御出でになるのだが、私の如くリアルに60年代の擬似ステ時代を経験して来た者にすれば、「貴殿はお幾つ?」と問い掛けたくもなると云うものだ。

それ位擬似ステとステレオでは聴感上の違いがある。違いが判らないと云うのであれば、それは実際に聞いた事が無いと云う事に他ならない。
擬似ステと云うのは、ピンボケ、或いはソフトフォーカスで色気を出した写真のようなものである。音源がピンポイントで定まらないので、何と無く音源が拡がって聞こえるのである。
モノラルは1チャンネル再生であるから、スピーカーは1本である。此処迄は何の問題も無かった。しかし、ステレオ再生が一般的となってからは、概ね2本のスピーカーでモノラル音源を聴くようになり、本来のステレオ音源か擬似ステかの判別が付き難くなった訳である。

擬似ステとは、モノラル音源を左右の2チャンネルに分け、その時に一方のタイミングを何ミリセコンドか遅らせる事によって、脳が音場の広がりを認識する事を利用した再生方法である。簡単に言えば、ずれた音を反響音と捉えて仕舞うと云う事なのである。
従ってオリジナルの音の輪郭はボケて、それなりの女性でも美人に見えて仕舞う訳である。

対してステレオ録音は、最初からL・Rの2チャンネルで録音されて居るから、各楽器の音の輪郭はボケず、自然な音響の減衰がある。
最も大きな差異は各楽器の定位感が有る事だ。これはオーケストラのような大編成の場合に各楽器の位置関係が明瞭になる。それが故に立体音響なのである。
擬似ステは立体音響では無い。
尤も、モノラルであっても奥行き感は存在するので、擬似ステでエコーを付加すると、脳が空間の広がりを錯覚するので一定の効果はある。
しかし、あくまでピントがボケただけの錯覚美人である事を忘れてはならない。擬似ステがオリジナルを超えるなんぞと云う事は絶対に有り得ないのである。

で、コンヴィチュニーのベートーヴェンであるが、徳間の何某が何を言おうと、これはステレオ録音である。
今回のテーマはコンヴィチュニーのETERNA盤ベートーヴェンはステレオ録音であると云う事を、実際に聴き比べながら検証しようと云う事なのである。
以前の記事で、第5のモノラルの音が極めて優れて居た為に、一瞬、信念がぐら付いたが、これに就いても今回はジックリ考察したいと思う。



先ずはモノラルの音と擬似ステの音を聴き比べて、その違いを確認して戴きたい。
素材はフルヴェン/VPOの52年録音のエロイカである。
最初は英EMIのALP1060(MONO)
輪郭が確りとして、程良き奥行きがあり、何より音楽の生気が感じられる。
モノラル録音のモノラル再生(2チャンネル変換)である。




次は東芝音工盤AA7131 ブライトクランク(擬似ステ)盤である。
これが私が最も古くから聴き続けて居る音盤で、エバークリーンレコードと称する、所謂「赤盤」レコードで、見た目は頗る格好が良い。
然し、オリジナルで感じられた音楽の生気が後退し、妙に肥大した音響で落ち着かない。




オリジナル(ALP1060)を元に、私が擬似ステ化してみた。
Rチャンネルを80ミリセコンド遅延。
幾分左右に拡散されたように感ずる。上記のブライトクランクよりは自然で聴き易い。




更に上記の擬似ステにデジタルエコーを付加してみた。
こうするとエレクトローラのブライトクランクに非常に近くなるのが判る。





次にステレオ録音の確認。
62年録音の日コロのSUPRAPHON盤。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、ヨセフ・スーク/コンヴィチュニー指揮/チェコ・フィル
これは明瞭なステレオ録音である。
チェコ・フィルとスークの柔らかな音色を生かしたコンヴィチュニーの名指揮者振りが見事である。繊細で優しい演奏であるが、一本筋の通った聴き飽きのしない名演だ。




コンヴィチュニー/ゲヴァントハウス管の擬似ステの確認。
日コロのeurodisc盤。58年録音のブルックナー交響曲第7番
これは内ジャケにSIMULATE STEREOと表記があるので、嘘も偽りも無く擬似ステと考えて良い。
非常にウエットな感情に溢れた演奏で大らかな好演なのだが、如何せん定位感が全く無く、擬似ステとしてもRの遅延が抑えられて居て音場感は少ない。
モノラルに近い擬似ステであると言える。





此処から件のベートーヴェンに就いての検証。

Shuさんからは1番から9番までの全曲のETERNA MONO盤が送られて来たのだが、全曲を此処で検証する迄もあるまいと考え、1番(1楽章)、5番(1楽章)、6番(5楽章)、7番(1楽章)、9番(2楽章)の5曲に関して、ETERNA MONO盤とPHILIPS STEREO盤を比較する事とした。
この内、5番と6番は単売のfontana国内盤も確認する。
更に5番は64年のETERNA STEREO盤と、
ETERNA MONO盤から擬似ステ化したものも合わせて確認してみる。

交響曲第1番・第1楽章 ETERNA MONO盤
第1番は第9の4面目に収録されて居る。盤が良いせいかハッキリクッキリと太く豊かな音が刻まれて居る。木管が弦群の後方で鳴って居るのはモノラルとしては上出来で自然なバランスだ。




交響曲第1番・第1楽章 PHILIPS STEREO盤
PHILIPSの全集からの収録。
定位感があり響きの減衰も自然で、完全なステレオ録音である。59年の録音ながら非常に優れた音質である。





交響曲第7番・第1楽章 ETERNA MONO盤
ややハイ上がりで高温がキツく耳に付く。同じ59年録音の第1番の自然なバランスとは違い、奥行きの出入りも少なく平板な印象は拭え無い。
50年代のETERNAのMONO盤と言えば一連のアーベントロートの素晴らしい音質が印象に有り、正規録音のコンヴィチュニー盤がこのバランスだと云うのは全く腑に落ちない。




交響曲第7番・第1楽章 PHILIPS STEREO盤
音量が上がっても高音が突出する事無く、非常に良いバランスであり、立体的に展開する非常に優れた録音と言える。誰が聴いてもこれが擬似ステであるとは言えぬであろう。完全なステレオ録音だ。しかも非常に優れた名演である。当全集の中で、私の一押しは、この第7である。




交響曲第9番・第2楽章 ETERNA MONO盤
やや高音が耳に付くが、第7のMONO盤よりは奥行き方向の深さがあり聴き易く感ずる。トリオの木管の絡みは非常に美しく、聴き惚れてしまう。
全体の出来としては、中域の充実感が足りず細身の神経質な演奏に聞こえて仕舞うのが残念である。





交響曲第9番・第2楽章 PHILIPS STEREO盤
MONO盤で気になった広域も柔らかく再現され良いバランスである。冒頭の次々と推移してゆく楽器の移り変わりも立体的で完全なステレオ録音と言える。
ファゴットの渋い音色や、古い皮のティンパニの質感も完全に捉えて居る素晴らしい録音である。トリオの木管の絡み、奥深い所からのホルンの美しい音色も充実して居る。非常に美しい音楽だ。





交響曲第6番・第5楽章 ETERNA MONO盤
60年の録音であるが、驚く程抜けが悪い。冒頭のホルンの神の声も、乾いて神々しさに欠ける。4:25からのヴィオラの活かし方はMONOと雖も明瞭に再現されて居て、それが唯一の救いだ。





交響曲第6番・第5楽章 fontana STEREO盤
fontana盤は中域の充実した昔乍らの落ち着けるステレオ音質だ。冒頭のホルンも渋く良い味である。4:25からのヴィオラは、左方のヴァイオリンと対話して非常に麗しい。このポリフォニックな表現が、コンヴィチュニーのステレオ盤を聴く大いなる喜びとなる。





交響曲第6番・第5楽章 PHILIPS STEREO盤
PHILIPS盤は抜けが良くなり、木管の美しさが際立って来る。冒頭のホルンは威圧的では無く、慈愛に満ちた優しく美しい響きだ。4:25からのヴィオラも強調するでは無く、自然と浮かび上がって来るのがバランスの良い証左である。
これが擬似ステだと言う者が居れば、相当な頓珍漢である。





交響曲第5番・第1楽章 ETERNA MONO盤(63年?)
コンヴィチュニーの第5は61年のリリースで、今回のこの盤はジャケット上部の黄色の部分にM33マークがあるので、恐らく63年の盤と推測して居る。しかし、これが61年盤であろうと、驚く程の差異は無いと思う。
この当時のいい加減さと云うのは、ジャケットと音盤のレーベルにも
Sinfonie Nr.5 c-moll op.67とCoriolan-Ouverture op.62の2曲が表記されて居るが、実際に音盤に刻まれて居るのは第5のみなのである。然も裏ジャケにはコリオランの詳細な解説付きであるから恐れ入る。
音質は抜けの悪さはあるものの、中低域が充実してMONO盤としては聴き易い部類である。
尚、この動画は米国ではブロックされて居るようである。




交響曲第5番・第1楽章 ETERNA MONO盤(67年)
64年からこの肖像画のジャケに変わって居る。64年と言えば、徳間の何某氏の「ETERNAのステレオ機材導入は64年である」と云う証言が気に掛かる所であるが、取り敢えず御聴き戴きたい。
63年盤に比して、圧倒的に帯域が広がって居る事に驚く。同じマスターを使って居るとすれば、カッティングマシンが変更されて居ると言わざるを得ぬ。
恐らく64年の時点でのステレオ機材導入と云うのはカッティングマシンの事であり、同時にモノラルの機材も新しくなったと推測される。





交響曲第5番・第1楽章 ETERNA MONO盤(67年)から擬似ステレオ化
上記67年MONO盤から私が擬似ステレオ化してみた。要するに「擬似ステ説」を検証する為に、モノラルの元ネタから擬似ステ化すると、この様な感じになるのだと云う実験である。
当然の如く音の輪郭はボケる。要するに乱視眼のようになり音が滲む分だけ音場が拡がって聞こえる道理だ。風呂場で歌が上手く聞こえるアレである。
然し、本来のステレオの楽しみである定位感は全く無い。有る様に聞こえるとすれば、それは脳内補正が働いて居るからに他ならない。





交響曲第5番・第1楽章 ETERNA STEREO盤(64年)
徳間の何某氏の言を信ずるならば、この64年盤がステレオ機材導入後の最初の音盤と云う事になる。以前の記事でも確認したが、68年の黒レーベル盤よりは明らかに此方の音質が優って居る。
音場は狭い乍らも音の輪郭は明瞭でボケは無い。何より楽器の位置関係が明確であるから決して上記のような擬似ステでは無い事が理解出来るのである。





交響曲第5番・第1楽章 fontana STEREO盤
国内盤のコンヴィチュニーのベートーヴェンは最初はfontanaレーベルであった。私が聴いて居たのは分売の廉価盤のfontanaのグロリア・シリーズである。
マスターの違いであろうと思うが、上記のETERNAのステレオよりは抜けが良く音場が広い。若干薄口の鳴り方であるが、当時の音盤とすれば上出来の部類と言って良い。
各楽器の位置関係も確り出て居て、ステレオ録音である事が確認出来るであろう。





交響曲第5番・第1楽章 PHILIPS STEREO盤
PHILIPSから全集が発売され、かなり無理をして入手した思い出がある。
然し、無理をした甲斐が有り、全体として音質は非常に良い。この第5が最も音質が悪く、満足出来る音を引き出すのに大変苦労をした。
今回の収録にはDENONのDL-103SAを使って、漸くGOLらしき厚みのある再生音が得られた。
上記のfontana盤よりは中域の曇りが取れて見通しが良くなった感じだ。マスターは良い音が入って居る筈なので、第7番のように両面カッティングで発売すれば優れた音質になると思われる。





さて結論であるが、コンヴィチュニーのETERENA盤ベートーヴェンの「擬似ステ説」なるものは流言飛語の類だと云う事が御理解戴けたものと思う。
同様にシューマンもステレオ録音だと云う事が判るのであるが、これは次の機会に回す事にする。
徳間の何某氏の言う64年説は、恐らくカッティング・マシンの事だと思う。
録音は、恐らくPHILIPSの機材を用いてステレオ録音され原マスターはPHILIPSが所有して居るものと思われる。fontana盤、PHILIPS盤の音質が、ETERNA盤より上回るのはその所為である。
更に、ETERNAのMONO盤に関しては、64年以降の方が音質が良い。これは64年にカッテイング・マシーンが変わったと云う証左とも言える。

今回は原始的な擬似ステレオ作成を試みたが、これは突っ込んで行くと中々に面白い。またぞろ新しき趣味が増えそうで、これは困惑頻りである。





想い出のイタリアン・コンチェルト

$
0
0
一月程前に大きな地震があり、当地もアドレナリンが身体中に行き亘る程度には揺れた。
そろそろ寝ようかと云う頃合に、携帯が消魂しく鳴り響き、大きな揺れに注意せよと表示されて居る。さて如何にせんと思うや程無く、クラクラ振動が来た。
咄嗟に立ち上がり、目視で素早くプレーヤーを確認。大丈夫だ。アームはロックしてある。スピーカーも大丈夫。と思った刹那、グラングランと大揺れが始まった。掛けてある腕時計コレクションを見る。大丈夫だ。落ちない。古い時計は落下は命取りである。立って居るだけで精一杯だ。色々な動きなんぞ出来る筈は無い。取り敢えず倒れそうな机上のスタンドを押さえるのが関の山であった。
これ以上酷くなった場合、どうする? スピーカーを取るかスタイラスのコレクションを取るか時計を取るか…
考えが纏まる前に揺れが収まった。
短い時間であるが、頭中の緊急反応網の中に家人のカの字も無い事に気付いた。
完全に揺れが収まってからゆっくりと階下に降りた。

当地が揺れる時には何処かが崩壊して居る、と云う程に揺れない土地柄である。要するに慣れとらん。
奥尻の地震の折に地震保険には入って居る。停電の最中、オーディオの被害に保険金は下りるのであろうか、と考えが巡って居た。

Shuさんには早々に遠方より御見舞いメールを戴きましたが、私もオーディオも些か草臥れては居りますが無事です。


探して居た音盤が漸く手に入った。
ワンダ・ランドフスカのチェンバロ、バッハのイタリアン・コンチェルトである。
ランドフスカなんぞと云う者を知って居るのは相当な好事家である。ポーランド出身の鍵盤奏者。1879年生まれ、1959年没。忘れられて居た楽器「チェンバロ」を現代に復活させた女傑である。
検索すればyoutubeで聴く事は出来るのだが、出来れば状態の良いレコードで聴きたい、と云う欲求は音盤再生家として当然の帰結である。
youtubeでは、SP盤をビクトロンで再生し、録音したものと、CDからのコピーの2種類を聴く事が出来る。
前者は矢張り鑑賞には耐えず、珍しい試み、と云う程度のものである。蓄音機は楽器であるから、録音には相当な生録機器が必要である。素人の録音では聴くに忍び無い。
後者は36年の録音とは俄かに信じられぬ程の音質で、こちらは充分に鑑賞に耐え得る。
とは言うものの、矢張りCD特有の、抜けの悪さは如何ともし難く付き纏う。
この演奏を耳にして、レコードであればさぞかし良き音質であろうと、何年も音盤を探して居た訳である。
ヤフオクに引っ掛ったのはSP復刻盤の再発LP。しかし、歴としたPATHE MARCONI盤。¥1,500は「買い」である。音盤は見付けた時に買わねば後悔する、と云う法則がある。法則に逆らってはならぬ。

バッハのイタリアン・コンチェルトには思い入れがある。大学時代の親友に纏わる想い出である。
大学時代、私は美術部に引っ張り込まれた。衰退著しい美術部に喝を入れて欲しい、と云う懇願に屈して入部した。その部室に彼は居た。
全身アバンギャルドに染まったような男であった。音楽と言えば当時流行りのパンクロックのバンド活動をして居るような奴で、音楽は聴くもんじゃ無い、やるもんだ。と公言して憚らない。当然、オーディオのオも、クラシックのクも彼の範疇には無かった。
彼は多治見の出身で、私は祖父が美濃、祖母が尾張なので、何かとウマが合った。
或る日の事、我が部屋で彼に音楽を聴かせた。音楽で魂を高揚させて創作活動をするのだ。と語って聞かせた。
帰り支度をしつつ彼は言った。「良いものを聴かせて貰った。あれは何と云う曲だ?」
バッハのイタリアン・コンチェルト。BWV971だ。
その後、何時の間にか彼の部屋には高価なオーディオが置かれ、大音響で只管同じ曲ばかりを鳴らして居た。何せレコードは一枚しか無いのだ。その一枚の為に大層高価なオーディオ装置一式を揃えるような極端な男なのだ。
その一枚こそがイタリアン・コンチェルトであった。

卒業後10年程経って彼の訃報を聞いた。自ら命を絶ったと云う。
数ヶ月後、岐阜の彼の実家を訪れた時、あの高価なオーディオセットは物置の中に積まれて埃に塗れて居た。
オマエの好きな、あの曲はどうしたのだ?
あのままイタリアン・コンチェルトを聴き続けて居ったら…
鬱病なんぞになりゃせなんだで。なぁ。
俺は今でも聴いとるぞ。
まあ、その内俺も行くでな。その時ゃタップリ説教してやるで。



イタリアン・コンチェルトについては各人調べて戴きたいが、何故チェンバロ独奏曲なのにコンチェルト(協奏曲)なのか、と云う事に関して簡単に説明して置く。
大雑把に言うと、コンチェルトは独奏楽器と伴奏楽器の掛け合いで成り立つ訳だが、この曲の場合、独奏も伴奏もチェンバロだと思えば良い。更に独奏も伴奏も一台のチェンバロで担って居ると考えてくだされ。要するに右手独奏、左手伴奏、その逆も可である。
結局独奏でないんかい。と言う勿れ。
イタリアン・コンチェルトを演奏する為のチェンバロは二段の鍵盤が必要なのである。
物凄く大雑把に言えば、下鍵盤が独奏、上鍵盤が伴奏と考えて良い。(実際にはもっと複雑に入り組んで居るが)
チェンバロと云う楽器は構造上、音の強弱が苦手である。一つのキーでオクターヴ上の弦も同時に弾くので倍音が響く原理だが、弦を弾く力は加減出来ないので音の強弱の表現には不利である。それを補うのが二段鍵盤と云う事になる。
下鍵盤を押すと、上鍵盤も同期して動く。詰まり複数の弦が弾かれ、音量が増す。
そして、上鍵盤を押した場合は、下鍵盤は同期せず単独の弦が弾かれる。(上鍵盤は倍音弦が無い)
イタリアン・コンチェルトは右手、左手が上に下にと入り乱れるコンチェルトなのである。

折角なので、手持ちのLPからステレオ録音の同曲を収録した。
ピックアップはSTANTONの681EEE MkⅢ。MI型(ムービングアイアン)の名機である。
イメージ 1
或る時、品川無線の朝倉社長が、「昔、スタントンにSHUREの図面を送ってあげたんだよ。それでMIカートリッジが出来たんだよ。」と仰って居たのを思い出す。貴重な裏話だ。
ともあれ、681EEEは単一楽器を上手く鳴らして呉れる。DG盤の再生にも非常に相性が良い。チェンバロ曲を鑑賞する為、久々に登場願った訳だ。
尚、件のランドフスカ盤の再生はedisonのspiritである。




グスタフ・レオンハルト
67年録音 harmonia mundi盤LP

その昔、チェンバロと言えばレオンハルト、と云う程に有名であった。これを聴けば間違い無かろうと入手したのであるが、演奏は無骨そのもので全く色気と云うものが感じられない。
使用楽器は博物館所蔵の古楽器で、音が細く響きは少ないのでゴツゴツ感が強調されて居る。
堅実と言えばそうなのであろうが、私はちーとも感動出来なかった。古楽器であれば何でも良いと云うものでは無い。



ジョージ・マルコム
61年録音 SERAPHIM盤LP

マルコム盤のLPを検索すると、何故かDECCA盤に辿り着く。と云う事はこの演奏はDECCA録音なのであろうか? だとすると、何故日本でSERAPHIMから出て居たのであろう?
演奏は乗りが良く聴き易い。使用楽器はモダンチェンバロで、響きもレオンハルト盤より遥かに豊かである。3楽章の弾け方は心弾むものがある。私はこう云うのは嫌いでは無い。



カール・リヒター
69年録音 DG盤LP

バッハと言えばリヒターである。オルガンにしろチェンバロにしろ指揮にしろ、リヒターの演奏は奥深く、安定感、安心感がある。概ねインテンポであるが、アーティキュレーションが巧妙で無理が無い。元来、ノリの良い3楽章でも弱音で繊細な表現を挟み込む。実に音楽的なのである。高揚感をもたらす、と云うよりは、じっくりと噛み締めて味わうべき演奏である。



イゾルデ・アールグリム
75年録音 PHILIPS盤LP
これは私のお気に入り盤である。リヒャルト・シュトラウスが感嘆したと云う程の実力者で、実に堂に入った演奏で感動的である。
2楽章のしみじみとした味わい、華やかな3楽章の美しさ。心に染み入り、チェンバロを聴く歓びが此処に極まる。



ワンダ・ランドフスカ
36年録音 仏EMI(PATHE MARCONI)盤LP

これが件のランドフスカ盤である。
録音は古いが実に感動的で圧倒される。流石にこのおばちゃんの技巧たるや只事では無い。単なる研究者では無く、表現者としても一流と言える。ありとあらゆる技巧を駆使した演奏で、更に強靭なエネルギーは比類が無い。
恐るべきは3楽章の表現で、爆発的エネルギーの中、バフストップを駆使してミュートを効かせるなんぞは神憑り的である。
トスカニーニが共演を丁重に断ったと云う程に灰汁の強いおばちゃんらしいが、それは演奏には良き効果をもたらして居ると言えよう。
これは聴くべき演奏である。



最後に、youtubeからお借りして来たので、参考迄にCD盤の音質を確認して戴きたい。
私がどうしてもレコードが欲しかった理由が理解戴ける事と思う。












ブルックナー交響曲第4番はロマンチックではない

$
0
0
最近はPCに向かって相対し、キーボードに打ち込むと云う作業が、腰にも心臓にも負担が掛かると云う理屈を編み出し、寝転がり乍らタブレットを操るなんぞと云う、実に横着な方法で、記事の製作も、ゆるりと構えて居たのだが、例によってgustav師匠から喝が入った。

事の発端はyositakaさんのブログ記事で、ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」に就いて書かれた事である。
https://blogs.yahoo.co.jp/izumibun/41108287.html
事ブルックナーとなると、触れずに行き過ぎる訳にはいかぬ。コメントにて、「誰も触れぬようなので敢えて言わせて戴くと、ケルテス/LSO(DECCA)と、メータ/ロスフィル(DECCA)は素晴らしい演奏である」と書き込んだ。
書き込みついでに、久々に好みのブル4を取り出し、聴き直してみた。
更に折角なので、PCにデジタル録音して、新たな記事を書かんと欲し、一通り録音を終えた頃合に、gustav師匠がケルテスのブル4の記事を上げられたのである。
https://blogs.yahoo.co.jp/gustav_xxx_2003/70096206.html
奇妙な因縁と言うかシンクロニシティと言うべきか、師と私との間には斯かる現象が度々起こる。
必然的に記事を急がねばならぬ状況に立ち至った次第である。


ブルックナーの演奏批評に関して
今から半世紀前、60年代後半の時分には当然PCなんぞと云う代物は無い。未聴のクラシック名曲の情報を得んと欲すれば、名曲解説本を繙くのが普通の有り様であった。
さて次は何を聴こう、と云う時に、この解説本は有用であったが、この時代、ブルックナーの項は第4番「ロマンティック」のみと云う物が多かった。
ブルックナーを聴いて居る、と言うと、奇異の目で見られた当時の事である。
当然、ステレオのブルックナーの国内盤となると数える程しか無く、ワルター、クレンペラー等を選択するのが一般的な選択で、たまに新譜なんぞ出た時には有頂天になった。
こう云う時だからこそ、ライナーノートを執筆して居る評論家の言に重みが有った。特にブルックナーの音盤に多く出現した某氏の論説は、断定口調で解り易く、大変参考になった。
ブルックナー音盤の黎明期に現れた某氏の存在は、今日のブルックナー隆盛に多大なる功績があった事は否定すべくも無い。
特にクナッパーツブッシュ、シューリヒト、ヨッフム、朝比奈、ヴァントに関しては大変参考になり感謝に堪えない。
しかし、或る時点で、このブルックナー音盤の大功労者である某氏の物言いが、私の癇に障るようになって来た。
某氏の贔屓の演奏家(指揮者)は、「森羅万象」とやらの表現を駆使して称揚する反面、嫌いな演奏家に関しては口を極めて貶す、と云う極めて偏重された論説が目立つようになって来たからである。カラヤン、マゼール、バレンボイム、メータのブルックナーは徹底的に叩かれ、貶められた。
私がカチンと来たのは、これらの指揮者のブルックナー演奏を私は極すんなりと気に入って居たからである。
尤も、流石にマゼールに関しては論拠に無理があると悟ったらしく、「兎に角マゼールは嫌いだ」で済ませて居たようである。
某氏の特徴としては、整って居るもの、美しいもの、には特に抵抗を示し、深みが無いだの表面的だのと云った観念的な批判を述べて居る。
私は、褒め称える場合には観念的で大いに結構だが、批判に晒す場合は客観的論拠を示す必要があると考える。
深みと言ったならば、音楽に於ける深みとは何か、を論じなくてはならず、何が足らざるから表面的なのか、を解説せねばならぬ。
某氏の言わんとする事は全く解らぬでは無い。論語で言う処の「巧言令色鮮し仁」である。
要するに、媚び諂う言葉に徳は無い、と云う事で、それはそうであろうと思う。であれば、某氏の嫌いな演者が巧言令色である事を述べなければならぬ。
ところがそれは絶対に不可能である。演者はプロであるから、巧言令色以ってすべし、なのである。聴者が喜ばずしてプロとは言えぬ。
とは言え、私も技巧のみをひけらかす類の演奏では是とし難い。
技巧は有りきであるが、技巧が嫌味に感じられず、美しさが感じられるような演奏を是としたい。
そして、逆も又真であり、下手であってもそれが味わいとして昇華されて居れば、それは是とすべきだと思う。

明治の書家、中林梧竹の書論で、
「凡そ法無きものは、もとより論ずるに足らざるなり。法ありて法に囿せらるるものも、また未だ可ならざるなり。有法よりして無法に帰し、法なくして法あるは、いわゆる神にして化するもの、これを上となす。」
と云うものがあり、要するに、
技法があるのは当然であるが、技法に囚われて居るものは良く無い。技法があっても無いように感じ、技法が無くても有るように感じる事が神技であり、これが最上である。
と云う論である。
何れにせよ、技法は有るに越した事は無いのだ。

我が国はちょいと特殊な環境であって、「◯◯道」と云うものが有る。簡潔に言うと、型から入って心に至る事なのだが、剣道にしろ茶道にしろ書道にしろ型から入る。
処が、この型から入って、その上に進む者は極一握りの者だ。
私は某評論家は、この型を示したのだと思って居る。
某氏は、ブルックナーの演奏はこうでなくてはならない、なんぞと断定口調で述べると、一部で、それ以外は言語道断と云うような風潮が出来した。
◯◯道に有りがちな「型」偏重と云う事がブルックナーに関しても嵌って仕舞ったように感ずる。
某氏曰く、「メータなんて聴く方が悪い」。
こう云う言を払拭したくて、私は今この記事を書いて居る。


ロマンティックとは何か
そんな事には興味が無い。音楽を楽しめればそれで良い。と云う御仁は、以後の話は詰まらぬであろうから、素っ飛ばして戴きたい。

最近、千葉の市原のチバニアンと云うものに興味がある。地球の磁場逆転の動かぬ証拠とか何とか言うて居る。
が、騙されてはいかん。
こんな事、本気で言うて居る者はバカか?と思うのである。
で、フォッサマグナはどうする?。柏崎千葉構造線はどうする?。伊豆半島が南から本州にぶつかって、その衝撃で富士山が出来た、と云う説はどうするのだ?
プレートテクトニクスを否定するのか?
千葉の市原は太古から微動だにして居らぬとでも言うのであろうか。
地べたなんぞは、プレートの上に乗っかって、地球上を動き回って居る。
ワシに言わせれば、千葉がグルリと回った証拠にしか思えぬのだが…
もう少し、古事記だの竹内文書だの旧約聖書だの十八史略だのを読み解け、と言いたくなる。
房総半島は何故鳥の形をして居るのか、とか、千葉には巨人が居た、と云うような話の方が余程ロマンがある。
と、敢えてロマンと云う言葉を使ったが、ロマンと云う言葉も似たような事が言えて、ブルックナーを理解する上で、日本語となって居る「ロマンチック」と云う言葉は、全く意味を成さ無い。

昔の解説本には、ブルックナーは4番しか無かった、と書いたが、ブルックナーの交響曲では唯一、4番のみがサブタイトル付で、当時は晦渋であったブルックナーの交響曲の中にあって、取付き安かったのであろう。
実際、音盤も4番が一番多かった。大御所爺の中で4番の出て居ないのはトスカニーニとシューリヒト位のもので、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、ワルター、クレンペラー、ベーム、コンヴィチュニー等々、ブルックナーでは例外的に多くの音盤が出て居た。
それ位人気が有ったと云う事であろう。
私がバイブルとして居た音楽の友社の名曲解説全集には、流石に1番から9番迄が網羅されて居り、大変重宝したが、呼称は現今とは些か異なって居る場合が有り、ブル4は「ロマン的」と云う表記になって居た。
この全集、曲名や人名は時代を反映して居て、モーツァルトの交響曲38番はプラーグで、ドヴォルザークはドヴォルジャックである。
しかし、「ロマン的」と云うのは余りにも直訳過ぎて全く情緒が無い。矢張り「ロマンティック」の方がすんなりと心に入って来る。
只、この全集の偉い処は、ちゃんと“Romantische”と云うドイツ語も併記して居る処である。
しかし、より正確に表記するのであれば、ブルックナーが初稿に書き入れたのは“Die Romantische”である。
更に言えば、出版譜にはこの表記は無く、実際にはブルックナー本人が付けたか否かは定かでは無い。詰まり、非常に怪しいのである。
怪しいのではあるが、古くから、この「誰ぞ」が名付けたネーミングには含蓄の深いものが多い。
モーツァルトのジュピター、ベートーヴェンの英雄、運命、皇帝、エリーゼのために。
そして最近、私が感服したのは、田園である。
以前の記事で私は、田園と云うネーミングは戴けない、パストラルの方が相応しい、と書いたのであるが、最近は心境が変化して来て居る。
謎解きを深めて行く中で、日本語表記の奥深さに気付き、慄いて居るのであるが、これは次のネタとして取って置く。今はRomantischeである。

Die Romantischeを「ロマン的」なんぞと訳すと、ロマンとは何ぞや、と、堂々巡りに陥って仕舞う。
そうなると、Romantischeと名付けた誰ぞの意図からは離れるばかりである。
ドイツにはロマンティック街道(Romantische Straße)と云うのがあるが、別にローマに繋がって居る道と云う訳では無い。
では如何なる事かと、ここは学生時代から御世話になって居る独和辞典を紐解く。
Romantischの項には、最初に、ロマン主義の、ロマン的な、と出て来る。しかし、これでは何の解決にも至らぬ。単なる堂々巡りだ。
次には、幻想的な、中世的な、神秘的な、と出て来る。
Romantische Straße(ロマンティッシェ シュトラーセ)の意味としては、中世的街道とするのが正解である。要するに「古城巡り街道」だ。
脇道に逸れた。本筋はブルックナーのDie Romantischeの意味は何かと云う事である。
辞書のRomantischの項の最後に、die romantische Schle(ディ ロマンティッシェ シューレ)と云うのが出て来て、これの意味は「ロマン派」である。
ああやっぱりブル4はロマン派なんだ、なんぞと安心してはいけない。ロマン派とは何ぞや、と云う疑問に回帰して仕舞うだけの事だ。

先述の辞書を、今一度顧みると、神秘的な、と云う記述が有る。そう、ロマン派の実態は神秘主義なんである。
これがキリスト教神学と真っ向からぶつかるから厄介である。三位一体の否定である。
であるから彼らの神を秘する必要が有った。
イタリアのルネサンスでは、ダ・ヴィンチやミケランジェロが際どい作品を残した。が、形有る物は改変され、破壊され、潰されて仕舞う。ギリシア彫刻が殆ど現存して居ない事を見ても明らかである。
で、音楽である。
虚空に消えて仕舞う「音」であれば、手出しが出来ない。況してや真意が酌み取れない者には意味不明である。こうして神秘主義にとって音楽は有効な手段となった。
キャラクターが増えれば、当然楽器も増える。それが交響曲である。
バッハが器楽での対位法(コントラプンクト)を編み出し、管弦楽組曲第3番を残した。
これは、yositakaさんが仰る通り、最早交響曲である。
モーツァルトは究極の対位法、フーガを用いて交響曲第41番を残した。ここ迄は良かった。
最後に禁じ手、オペラで「魔笛」に手を出し、命を絶たれた。
交響曲は、解る者には解る、と云う手法である。対して、オペラは主義主張が丸解りで、ザラスシュトラなんぞ出て来た日には、背後に居るのは太陽神だと誰にでも理解出来る。
そう、ロマン派の神は、竪琴を持った音楽の神、太陽神アポロンなのだ。
パリ・オペラ座の天辺にはアポロンが立って居る。
イメージ 1

ベートーヴェンは矢張り最後の交響曲で禁じ手を使った。ベートーヴェンと云う人は初めて大衆と云うものを意識して作曲した人である。
事の真相を大衆に知らしめんと、敢えて禁じ手を使った訳だ。
ベートーヴェンは、キリストなんぞただの磔にされたユダヤ人だ、と喝破した人である。
ナポレオンが、態と教皇の面前で、見せ付けるように自ら戴冠した20年後に第9は完成した。
ナポレオンが露払いしてくれたお陰で、禁じ手が使い易くなった訳だ。
神秘学であるから、369には意味を持たせるのは当然で、それぞれに意味がある。
そして7は解放、自由と云う意味がある。であるから、自由の像(女神ではない)の頭部から7本の光線が放射されとる。
そして高く掲げられた逞しい右手には、ゾロアスター教のシンボルであるたいまつが見られる。これはプロメテウスが人類に与えた神の火の象徴だ。
イメージ 2


ベートーヴェンの7番は、誰ぞが「バッカスの饗宴」と名付けたが、バッカスとはディオニュソスの事であり、自由の像のモデルとなった。
しかし、自由の像の足は鎖で繋がれて居る。これはディオニュソスをモデルとした英雄プロメテウス像なのである。
イメージ 3


因みに、ニューヨークの自由の像の製作者は、フリーメイソンであるギュスターヴ・エッフェルで、元像彫刻の作者のバルトルディもフリーメイソンだ。
更に言うなら、バッハもモーツァルトもシカネーダーもサリエリもベートーヴェンもシラーもゲーテもナポレオンも、シューベルトもメンデルスゾーンもヴァグナーもブラームスも…

ベートーヴェンが第9で、敢えて禁じ手を使って呉れたお陰で、シューベルトもシューマンもブラームスもヴァグナーもブルックナーも、ロマン派の真意を酌み取る事が出来たのである。
当然、ヴァグナーもロマン派の真意は理解して居た。であるから、交響曲第3番を献呈したブルックナーには、ヴァグナー派に属して居るにも関わらず、交響曲作家として認めた訳だ。そして当然、ブルックナーにもその真意は伝わったと考えるのが自然である。
で、次なる交響曲第4番の初稿に、私はロマン派だ、と云う意味で、Die Romantischeと書き込んだのだと思うのである。
表面上はカソリックの信仰を保ち乍ら、自作交響曲に於いては「キリストはただの磔になったユダヤ人」と言い放ったベートーヴェンの魂を受け継いだのである。
決して日本語のロマンチックな物語では無い。



今回取り上げた音源は5種類。常々私が好んで聴いて居る音盤である。
しかし、これらの音盤を、いと麗し、と賛同する意見に滅多に出会わぬのが歯痒い。
冒頭で述べた如く、gustav師匠がケルテス盤を褒めてくれるのが喜ばしき例外と言える。
ブル4はロマン派宣言と言うべき清々しさを感ずる曲である。
皆の衆もこの際、ブル4の視野を広げてみては如何であろうか。
今回の収録カートリッジはgraceのF9を使用した。柔らかく音場が広い美音を奏でるのでブルックナーの交響曲には非常に相性が良い。


クレンペラー/フィルハーモニア管63年録音 Angel盤LP(ノヴァーク版)
何せ最初に、この曲良いな、と思ったのは、この音盤を聴いた時からなのである。
ポリフォニー親父のクレンペラーであるから、音が濁らず見通しがすこぶる良い。テンポも、今回取り上げた中では最速で、滞る事は無い。
それで居て性急な感じがしないのはyositakaさん御指摘の通り、この曲が腹に入って居るからである。
名手シヴィルの参加するホルンは何の苦も無く軽々と歌い、この曲を聴く歓びを増幅してくれる。
2楽章はAndante quasi Allegrettoであるからクレンペラーのテンポは正解である。音楽が淀まず、ポリフォニックな表現が独特な空気感を漂わせる。
3楽章は一点一画を疎かにしない丁寧な演奏で、遅いとは感じさせ無いが決して急がず、素朴感を表現して居て気持ちが良い。
一転、4楽章は速い。前楽章との落差があるから、ハラハラするようなスリリングな展開だ。速いテンポから更にアクセルを踏んで加速するのでオケに多少の乱れが生ずるが混濁はしない。
テンポは一定せず、何時もはクールな爺が珍しく熱くなって居るようだ。
ゆったりと構えて終結に向かうが、何せノヴァーク版なので盛り上がりは今一つだ。私はホルンが3楽章のリズムを奏で乍ら音楽が増大して行くハース版が好みなんである。




コンヴィチュニー/ウィーン響61年録音 RMC盤LP(ノヴァーク版)
ブルックナーの4番を聴こうと云う時に、先ず真っ先に取り出すのはこの音盤である。音質は万全とは言い難いが、素朴を絵に描いたようなコンヴィチュニーの指揮振りと、VSOのローカルな音色が絶妙な取合わせで飽きが来ない。
何時も言うのだが、コンヴィチュニー楽長は音楽センスが良い。恐ろし気な風貌と相反して、この人の音楽はチャーミングな表現が顔を覗かせる。何より、アゴーギクが見事だ。間の取り方が実に上手い。職人技だ。
カラヤンのように流麗な表現は、一見、見事に思えるが、コンヴィチュニー楽長のように深い呼吸で間を取ると、アインザッツが頻発する訳で、オケが下手だと音楽が続かない。そこが上手い処が職人技たる所以である。
1楽章は細部迄ボカさずクッキリと歌い込んで、次から次へと繰り出されるチャーミングな旋律に魅了され惹き込まれる。
私はこの演奏をどの評論家も賞賛しない事が疑問であった。特に某氏は古いクナッパーツブッシュやワルターばかりを褒め称え、コンヴィチュニーの4番はコの字も出ない。この評論家は耳が悪いか、性格が悪いのだと決めたのはこの音盤のお陰である。
それ位、私には決定的にこの演奏を愛する。
2楽章のテンポは全く快適だ。このテンポが私の理想だ。絵に描いたように見事なAndante quasi Allegrettoである。
カラヤン、ケンペ、ケルテスもこのテンポであるが、コンヴィチュニーのように弾んだチャーミングさは無い。この楽章に17分以上もかける某指揮者の演奏とは全く違う音楽に聴こえるだろう。
各楽器の旋律それぞれに心が通って居て、聴く者の心を掻き乱す。いい音楽だなあ、と独り言ちて仕舞う。これ以上の演奏は金輪際現れないと私は思う。
この演奏に反応しない評論家はどうかと思う。
3楽章も前楽章と同様激しさよりは軽快さであり、威圧的にならず、一緒に遊ぼう、と誘われる音楽だ。見事なのはトリオの素朴で可愛い気な表現で、溜息が出る程安堵する。
4楽章は出だしから既に惹き込まれる。ここは厳しく力強い音楽で、相変わらず呼吸が絶妙で安心感があり、聴き処満載だ。
終結部の盛り上がりは…矢張りハース版であって欲しかった。1楽章の主題が強調される予定調和なんだが、私は個人的に、3楽章のパパパ・パパパと云うリズムが強調されるハース版の方が、勝利の雄叫びのようで好きなんである。




イッセルシュテット/NDR66年演奏会録音 TAHRA盤CD(ハース版)
誰が聴いても安心の重厚感を求めるならば、このイッセルシュテット盤がお薦め出来る。
絵に描いたようにズッシリ感のあるドイツ流であるが、程良い加速が有り、音楽の流れがスムーズで呼吸が深いので圧迫感は感じ無い。
NDRは本当に上手い。戦後生まれのオケの筈だが、短期間でこれだけの力量に纏め上げたイッセルシュテットは偉とせねばなるまい。
重厚とは言え、無骨一辺倒ではなく、爆発前の巧みなディミヌエンドなんぞは思わず、上手い!と口に出そうになる。
2楽章は遅い。同じ武骨派でもケンペは実に適切なテンポであったが、イッセル親父はちょっと悲しくなる位の寂寥感が伴う。ムード満点なんだが、私は少々苦手だ。それでもgustav師匠が苦手な例の某指揮者よりは1分程速いので、以って瞑すべしである。
3楽章は標準的テンポだが、NDRの燻んだ音色でズッシリと重量感を感ずる。悪くは無いが潤いを求めたくなる。ここは一つトリオでしっとりと心を落ち着かせよう、とトリオを待つ。
しみじみとしたシットリ感は正にNDRの美点だ。
トリオを終えた後の主題回帰はスッキリとして、最初のような重さが取れて居る。これで正解である。
4楽章は標準的なテンポ。重厚で立派な音楽だ。時折現れる優し気で情緒的な表情が重苦しさから救ってくれる。
終結部、今度は期待を裏切らず、ハース版ならではの華麗な勝利の凱歌で、バーンと云う一撃で終わる。これを聴ければ、途中の多少のモヤモヤは全て吹っ飛んで仕舞う。聴き終えた時の充実感がこの演奏をお薦めする所以である。




ケルテス/ロンドン響65年録音 DECCA盤LP(ハース版)
ケルテスの国内盤はいきなりLONDONのGT盤(廉価盤)で出た。70年代半ばの事なので、65年録音をレギュラー盤の新譜と云う訳には行かなかったのであろう。廉価盤ではあるがちゃんとZAL刻印が押されて居る。詰まり音が良い。
しかしそんな事より、瑞々しく果汁が迸るような演奏そのものにすっかり魅了されて仕舞い、以後は私のお気に入り盤と相成った。
しかし、世は少し前(74年)に、同じLONDON盤で発売されたベーム/VPOに席巻されて居り、類い稀なる魅力に溢れるケルテス盤が評判になる事は無かった。
何となれば、追い掛けるようにケンペ盤が出て、ヨッフム、カラヤン、マズア、ヴァントと、ブル4のラッシュが続いた。ここ迄大御所連中の新譜に包囲されたのではケルテス盤は埋れざるを得ない。
ケルテスが急逝したのは73年。2番を残してVPOとのブラームスの録音が進行して居た。64年に録音されて居た2番を加えて何とか全集の発売に漕ぎ着けたが、もし、ケルテスが達者で居たら、VPOとのブルックナーと云う企画が有って然るべきで、ベーム盤は無かったのかも知れぬ。
そんな夢想が駆け巡る程、ケルテスのブル4は魅力的な演奏なのだ。
1楽章は快調なテンポで始まる。遠くからのホルンが次第に大きく近付いて来る。上手い。当時のホルンは名手タックウェル。抜群の安定感だ。音楽は斬れ味鋭く弛む事無く流れる。時に消え入りそうな木管の情緒が陰影を深める。この楽章のみで充分名演だ。
2楽章のテンポは適切であるが、音楽そのものはウエットで情緒がある。フレーズの最後を引き摺らないのでウエットでありながら陰鬱にならず透明度が維持される。最後のティンパニの絶妙な匙加減はどうだ。心を打たれる名演だ。
3楽章の軽快さは私の求めるものだ。斬れ味の鋭さは相変わらずで、呼応する金管の咆哮に心が踊る。トリオも殊更にテンポを落とさず、巧みな呼吸で生気ある音楽に仕上げて居る。
4楽章が何にしろ絶品なのである。音楽が躍動し、心が暴れ捲っとる。ケルテスがノッて居るのである。このノリに付いて行けない者は脱落である。ブルックナーはこうでは無い、と云う堅物頭は聴いてはいけない。こうなると他人に紹介するのも惜しい。私だけの宝物にしたい位である。
しかし、この演奏に嵌ると他が面白く無くなる。ちょっと劇薬のようなヤバい演奏だ。
終結部のノリにノッたホルン。全てを裁ち切るかの如きティンパニの一撃で全曲が終了する。




メータ/ロスアンジェルス・フィル70年録音 LONDON盤LP(ハース版)
嘗て、メータのブルックナーなんて聴く方が悪い、と曰わった評論家が居た。
痛快である。解らん者には聴いて欲しくない。その人物が損な人生を送るだけで、ワシには全人類を救済する菩薩心はさら無い。
しかし、或る人物に洗脳された憐れな被害者には多少なりとも手助けをしたいと欲する。
で、メータのブル4はいいのである。清々しいのだ。同じLONDONのベーム盤が出る前からメータ盤を聴いて居たので、ベーム盤は如何にも重苦しく感じた。明朗快活なメータの演奏の方が、私にはすんなり入って来るのだ。
1楽章出だしからくっきりと明朗なホルンに惹き込まれる。音楽が盛り上がり音量が増大しても殊更に無理をして居ない。余裕があるからうるさくならず、透明度が維持され清々しいのである。テンポにも自然な起伏があり聴き易い。
2楽章出だしは思ったより遅く、ん?となるが、気付かぬ程微妙に加速して行くので重苦しくはならない。どんな時でもティンパニのトレモロがしっかりと聞こえるのが好ましい。
途中、音楽が活き活きと弾み、如何にも楽し気な明るさが差し心が躍る。私はメータのこの演出が大好きだ。
3楽章は些か慎重に始まるが曲が進むに連れ、次第に調子が出て来て本来の軽快で明朗な音楽となって行く。例のパパパ・パパパと云うホルンの軽快な合の手が心地良い。ここはこうで無くてはならない。
4楽章の出だしも流れで引き続き調子が良い。透明感が有り豪快で有り乍ら濁らない。理想的な展開だ。
序盤の嵐の後の憂いを持った第2主題はゆったりと深々と奏される。下手な小細工を弄せず思い切り歌うのが潔く、心地良い。
中盤の盛り上がりも、ノリが良く、アクセルを踏みつつ、常に余裕があり抑制が効いて居るので安心だ。同じノリの良さでもケルテスとの違いはここである。
終結部も豪快に鳴らすが抑制が効いて居る。ケルテスのように燃え上がって居る訳では無く、大きく美しく鳴らし切る、均整の取れた美しさで、余裕を持って全曲を締め括る。
メータ34歳。会心の出来である。聴かない者には解るまい。








プレヴィンの勝手な想い出

$
0
0
アンドレ・プレヴィンが逝って仕舞った。
ひたひたと寄せ来る寂しさが、この記事を書く動機である。
プレヴィンの指揮する演奏が大好きだと云う訳では無いし、このブログでも殆ど取り上げる事も無かった。
私がプレヴィンを聴け。と言う場合は、CONTEMPORARY盤のKING SIZE!の抜群に冴えたピアノのプレヴィンであって、指揮者のプレヴィンでは無い。
しかし、亡くなったと知ると、70年代半ばに聴いたベートーヴェンの第5交響曲のイメージが今も忘れ難く、郷愁とも言うべき懐かしさを禁じ得ない。
73年の録音であるから、プレヴィン44歳の年である。同年7月にクレンペラーが亡くなって居るが、ベームもカラヤンも元気にベートーヴェンを振って居た時分である。
ジャズの分野では、そこそこ名の知れたプレヴィンが態々第5を録音したと云うので、気になって購入したのであった。
そりゃ気になる。
当時の若手の代表格、アバドもメータも小澤もまだベートーヴェンの、それも第5と云う難敵の録音に挑んでは居なかった。唯一、天才マゼールだけはモノラルで録音して居たが、ステレオ録音には至って居ない。
ショルティ/シカゴ響の録音は74年であるから、ケンペとかクーべリックの第5が話題となって居た頃で、ベーム/ウィーン・フィルがこの上無く美しい音響で他を圧倒して居た。その当時の出来事である。
ビートルズみたいな髪型のプレヴィンが、どんな第5を聴かせてくれるのか気になるのが道理である。
因みに、近所の女子にこのプレヴィンの第5のジャケットを見せた所、「カッコイイ!」と云う反応であった。当時、四十過ぎのおじさんを「カッコイイ」と云う女子の反応は訝しく思ったが、そう云う私も、還暦を過ぎたカラヤンがカッコイイと言って居たので、もっと変態だと思われて居たに相違無い。
兎に角、長髪の指揮者の嚆矢とも云うべきはプレヴィンであろう。私の危う気な記憶を辿ると、当時の長髪指揮者はストコフスキーとプレヴィン位しか思い浮かばぬ。しかし、ストコはオールバックが伸びた感じの長髪で、ビートルズ風のマッシュルームカットのプレヴィンの先進性こそが新鮮であった。

で、肝心の第5の演奏であるが、決してルックスから想起させられる如き斬新な格好良さは無かった。
プレヴィンと言えばKING SIZE!である。
ジャズの名盤として名高いプレヴィンのリーダー作であるKING SIZE!は、58年の録音。天才少年と謳われたプレヴィンの20代の名演である。
この何ともファンキーで、べら棒に上手いピアノ演奏と、マッシュルームカットの風貌から予想された、ワクワクするようなノリの第5を期待して居た私はズッコケた。
同じロンドン響で師匠のモントゥが録音した第5の方が、余程ノリが良く、カッコイイのである。
ゆったりと構えて大らかで、決して煽り立てる事が無く、細部まで神経の行き届いた演奏。と書くと美辞麗句過ぎる。安全運転過ぎて面白く無い。と書くと身も蓋も無い。
これは外したかな…と冷や汗をかいたが、悔しいので何度も繰り返して聴く内に、漸くプレヴィンの意図が理解出来て来た。
遅いインテンポで、低弦をたっぷりと鳴らし乍らティンパニを確実に叩かせて居る。要所ではタタタタンと云うリズムが浮かび上がる構図だ。全く気負いが無い。
トスカニーニやフルトヴェングラーやカラヤンの後にベームを聴くと、何とも大人しく、面白味に欠けるように聴こえて仕舞うが、プレヴィンは更に輪を掛けて大人しく聴こえる。
圧倒的に「カッコイイ」第5を響かせたC・クライバーの第5の録音は74年だ。
詰まり、まだ見ぬクライバーの第5のような演奏を漠然とプレヴィンに期待して居た私は、完全に梯子を外された訳である。


プレヴィンのクラシック音楽初体験は、5歳の折、フルトヴェングラー/ベルリン・フィルの定期演奏会だったと云う。
フルトヴェングラーやモントゥの強烈な第5を充分に理解して居た彼は、敢えて対極とも言える表現を取ったとも考えられる。
しかし、プレヴィンはもっと純粋に、ベートーヴェンに向き合って居たような気がする。
ベートーヴェンの音楽を信じ切って居ればこそ、全く気負いの無い第5を世に問うたのではないかと思う。
されば、第2楽章の無理の無い自然な音楽に心安らぐのである。
私が感心したのは4楽章の冒頭部分、タタタタンと云うモットーをティンパニでクッキリ叩かせたセンスである。モントゥ師匠でもこのセンスは無かった。プレヴィンのゆったりとしたテンポでなくては、ここの部分のこの表現は有り得ないのだ。
最初からティンパニを強めに叩かせて居るから、4楽章に至って、この表現をしてもわざとらしさが無いのだ。全曲を俯瞰した時、プレヴィンはこれをやりたかったんだな、と云う事が分かる。
決して熱血の第5では無いが、思わぬ所で作曲者の意図を抉り出したナイスプレーだ。
問題があるとすれば、LSOの深みの無さ。これ許りは如何ともし難い。これを熱血でカヴァーしたのがモントゥ師匠の演奏なのだ。

師匠モントゥは、「オーケストラの邪魔をしない事」と云う忠告を与えたと云うが、プレヴィンは更に踏み込んで、作品の邪魔をしない演奏を心掛けたような気がする。
87年録音のブラームスの第4交響曲を聴くと、本当にこの曲が好きなんだと云う、プレヴィンのブラ4に対する愛情を感じる。
このCDは私の愛聴盤の一枚だ。
第2楽章の、聴いて居て泣きそうになる程の優しきリリシズムも大好きだが、3楽章が実に見事だ。矢張りティンパニの扱いが上手いのである。これはクリップスやケンペに匹敵する好演と言って良かろう。
4楽章はごく自然で食い足り無いが、悪さをしないと云うプレヴィンの美点が遺憾無く発揮されて居る。
此処でも曲の良さを信じ切って居るプレヴィンが居る。このストレートさが良い。
因みに、このCDにカップリングされとる大学祝典序曲は実に見事な名演である。この曲はマゼールとプレヴィンが良い。兎に角、大太鼓がズーンと響くこの曲は、大型スピーカーをお持ちの方にはお勧めの曲だ。マゼールもプレヴィンも大太鼓の扱いが上手い。分かっとるのだ。



今回は件のベートーヴェン第5と、ブラームス4番、最期にジャズピアノのKING SIZE!から、I’LL REMEMBER APRIL と YOU’D BE SO NICE TO COME HOME TO の2曲を収録した。
プレヴィンを偲んで御聴き戴ければ幸甚である。


ベートーヴェン 交響曲第5番
プレヴィン/ロンドン響  73年録音  Angel盤LP




ブラームス 交響曲第4番
プレヴィン/ロイヤル・フィル  87年録音  TELARC盤CD



ANDRE PREVIN’S TRIO JAZZ KING SIZE!
58年録音  CONTEMPORARY盤LP


イッセルシュテット親父のブラームス第4交響曲

$
0
0
此の度の記事は、yahooブログで永年大変御世話になったgustav師への御礼として捧げる。

ヤフーブログ閉鎖の件で、様々な意見が飛び交って居るが、簡単に引っ越すと云う訳にはいかん。当ブログなんぞはヤフーブログの形式に沿って構成して居るので、同様の形式が通用する「村」に移住出来るか否かが目下の大問題。
このままブログ界を引退するか、或は何処ぞに移住するか、思案中である。
しかし、移住するにしても、ヤフーで蓄積して来た内容をそのまま持って行く気は無い。
過去の記事に関しては、リンク切れも散在する事から、移住すると決した場合でも、過去の内容を精査し、捨てるべきは捨て、残す場合でも内容は改訂しようと考えて居る。



Yositakaさんのブラームス記事に触発されて、今一度大好物のブラ4と好物のブラ3を聴き返し、記事にせんと音盤からの収録を開始したのであるが、捗らぬ事この上無い。
最近は収録時のモニターはスピーカーを止めてaudio-technicaのATH-W2002と云うヘッドフォンを使用して居る。
世の中、様々なスピーカーが存在して居る訳で、当方のPCに繋いで居るONKYOに合わせると、如何にしても小型スピーカーやヘッドフォンで聴く場合、高音がキツ過ぎる。であるから、大型スピーカーに近い聞こえ方がするATH-W2002をモニターで使用して居る訳である。
然し乍ら、ヘッドフォンで何時間も音に集中すると、神経も体力も相当に消耗する。1楽章毎に休憩を取り乍らの作業であるから捗る道理は無い。
捗らん其の二は、ベームの所為である。否、ベームが悪い訳では無い。DG国内盤の音の所為と言うが正しい。
当ブログ記事内で、幾度も言及して居る事だが、DG盤にせよDECCA盤にせよ、国内盤とオリジナル盤とでは全く音の作りが異なる。音楽の基盤となる音質が異なると云う事は、音楽(演奏)の印象も大幅に異なる訳で、特にDG盤なんぞは国内盤とオリジナル盤との余りの差異に仰け反る事が多い。
私は常々、ベーム/VPOのDG盤ヘルマンス録音は人類の宝である、と言って居るのだが、国内盤の出来によっては首を捻らざるを得ない事が多々出来する。捻り過ぎてヘルニアになった事もある。
音盤再生は手を替え品を替えて、否、針を替えイコライジングを替えて、録音技師の目指したイメージに近付けねばならぬ。
だに依って、捗らぬ訳である。

さて、そうこうして居る内、永年欲して居た音盤を入手し、急遽、これに関しての記事を先行させる事にした。
先行とは言うが、yahooでは此れにて最後になるやも知れぬのだが。

件の音盤は、ブラームスの交響曲第4番。シュミット=イッセルシュテット指揮/北ドイツ放送交響楽団(表記は国内盤表記に準ずる)
の米voxオリジナル盤。ヴァン・ゲルダーのマスタリングで、カッティングがフランスと云う、音盤愛好家にとってはこの上無く魅力的な音盤と言える。
懐寒き現下で、オリジナル盤に大枚を叩くとなると大いに逡巡するが、送料込で\1,700也では迷う理屈は無い。煙草4箱分を減らす選択に些かの躊躇いも無かった。

7種の針で聴き比べて、ベストマッチはDENONのDL -103SAであった。矢張りステレオ初期の音盤に関しては丸針が無難に再生出来る。103SAは丸針乍ら抜けが良く、ノイズも適度に低減するので、古い音盤は聴き易い。腰の強さは歴代103固有のものであり、ブラームスを聴く場合には好ましき特徴だ。良く出来た針である。
斯くして今回の収録には103SAを用いて居る。

イメージ 1


私はブラームス4番には最も執着して居るのだが、若き時分に最も繰り返し良く聴いたのは、カラヤン/BPO盤、ケンペ/ミュンヘンPO盤と、このイッセルシュテット/NDR盤である。
その後、ケルテス盤が私にとってのベスト盤になったが、兎に角、上記4種の演奏は幾度聴いても飽きる事が無く、聴く度に感動を新たにする。
イッセルシュテット盤は日コロの名曲ギャラリーから出て居た。
そのレーベルには小さなvoxのマークがあるので、何時かはオリジ盤を聴いてみたいと思って居た。
yositakaさん(fc2に引っ越された)との遣り取りの中で、vox初期盤にはヴァン・ゲルダー(RVG)のマスタリング盤がある、と云う話になり、このブラ4もゲルダーの作品かも知れぬ、と云う期待が湧き上がって来たのである。

ゲルダーのJAZZ録音は、オリジナル盤を確認すると、抜けが良く響きの絡みが美しく、単に誇張された音作りでは無い事が判る。
然し乍ら、日コロ盤は古き良きステレオ録音と云う体で、要するに抜けが悪い。1楽章最後の最強音では音が割れ、到底優秀録音とは言い難い。
60年代初頭と雖も、EMIやDECCAではもっと音場感、色彩感の豊かな録音が存在して居る訳で、この何とも魅力的な演奏を、良き音で聴きたい、と云う欲求が募るばかり。
左右のチャンネルが各々に固まっており、どうにもステレオ感乏しい。各楽器が団子になって居り、奥行きが浅い。
いちゃもんばかり付けるようであるが、この様な音質であっても、その演奏の魅力には抗し難く、此れは燻し銀の様な音質なのだ、と無理矢理納得し乍ら聴いて居たのである。
この日コロ盤は1楽章のみを比較の為に上げて置くので、参考にして戴きたい。

さて、件のvox盤であるが、針を下ろして直ぐに、個々の楽器の音が解きほぐされて居るのが判る。左右、奥行き共に広く展開される。低域も自然で日コロ盤の様な強調感は無い。何より楽器の音が自然で響きが豊かある。
此れであれば「ゲルダーの仕事」と言っても差し支えあるまい。
このvox盤を聴いて居ると、余りに自然な音楽の運びに感嘆し、一点一画を疎かにしない高密度な構成、有無を言わせぬハーモニーの作りに、ひたひたとブラームスを聴く幸福感に包まれるのを感じる。
私は今迄、イッセル親父の73年ライヴ録音がブラ4の決定盤だと信じて来たが、vox盤を熟々聴くに、どうも両者共に甲乙付け難いと思うようになった。否、録音の緻密さと云う点からは寧ろvox盤の方が優って居る。所々でスパイス的に打ち込まれるティンパニなんぞはvox盤の方が効果的で、特に1楽章最後の連打の厳しさは魂が揺さぶられる。
私の所有して居る73年ライヴ盤はPHILIPS盤で、オリジナル盤を聴くと又、評価が変わる可能性はあるのだが、現段階では、恐らく唯一のブラ4の正規録音であるvox盤の方が素直に音楽に乗って行ける感じがする。
と、言うものの、73年盤のアーティキュレーションの巧みさは、巨人の如く屹立して、深い。
最終的には、個人の好みの問題になるのであるが、vox盤のオリジナルマスターが存在して居るのであれば、新たにデジタル化する価値は大いにありと見た。

※何時も述べて居るが、再生にあたり、大型スピーカーを用いる場合、高域が充分に抜けるように調整して戴きたい。
youtube音源は、あくまでヘッドフォン及び小型スピーカー向けに調整して居ります。

シュミット=イッセルシュテット/北ドイツ放送交響楽団/61年頃録音/米vox盤LP
1楽章のテンポは73年盤より心持ち早く感ずるが、虚飾を排した厳しさ、確固たる造形は、緻密な録音と相俟って自然に音楽に引き込まれる。寧ろキリリと引き締まった減り張りが北ドイツ風味で好ましい。イッセル親父の気力が充実し、眼光が背腹まで行き届いて居るのである。終結部は一段ギアが入り、「ウン」と気迫に満ちた煽りは、血圧が上昇する事この上無い。73年盤の玄妙な表現と比較するのも面白い。
2楽章の出だしのホルンからして横溢した生命力を感ずる。相対する木管もキリリと引き締まり音楽そのものに語らせる。弦も強調するで無く引き締まっては居るが、所々で絶妙なビブラートを掛けて聴き手の心を揺さぶる。実に模範的な表現である。73年盤の柔らかく包み込む様な表現と比較すると、一聴するにアッサリした感じを受けるのは、実は迷いの無い自信から来る正攻法だからである。聴きたい所が聴ける、痒い所に手が届いた演奏なのだ。
3楽章も早目のテンポで迷いが無い。ホルンの力加減が絶妙である。こう云う音楽になると俄然ゲルダーの表現が力を発揮する。左右の弦の掛け合いなんぞは、成る程これはゲルダーだな、と思わず納得する。イッセル親父の表現とすれば、73年の溜めの効いた表現の方が良く練れて居ると思うが、スタジオ録音のvox盤の方が細部の描写が効いて居て色彩的である。
さてクライマックスの4楽章であるが、堂々とした呼吸の深い73年盤に対してvox盤はキリリと力感に溢れて居る。あくまで73年盤との比較だが、イッセル親父の気持ちが昂り、力が入って居るのが判るが、音楽としては小振りだ。しかし後半の盛り上がりは録音効果も相俟って実に見事である。ティンパニがピリリと効いて、聴いて居て気持ちが良い。最後は呆気ない程の幕切れで、物足りなさを感ずるが、気合いの流れであるから致し方無い。
4楽章に関しては73年盤の巨大な造形と彫りの深さに軍配が上るが、細部の彫琢を愉しむのであればvox盤だ。
しかし何れにせよ永年の溜飲が下がるに足る名盤である。広くお薦めしたい。






シュミット=イッセルシュテット/北ドイツ放送交響楽団/73年演奏会録音/PHILIPS国内盤LP
この盤の収録にはgraceF9カートリッジにUS14ルビーをセットしたものを使用して居る。広帯域で高音が滑らかに再生出来る。






シュミット=イッセルシュテット/北ドイツ放送交響楽団/61年頃録音/日本コロムビア盤LP(第1楽章)
この盤の収録には、上述したようにDENONの103SAを使用して居る。その他設定はvox盤と統一して居るので、音質を比較して戴きたい。




Viewing all 81 articles
Browse latest View live